万葉和歌の起源
「万葉和歌はいつごろ、どのようにして発達したのか」という問題は古代国文学で最も重要視されるべき問題ですが未だにこれを解決できる国文学者が出てこないのはなぜでしょうか。国文学者の間には「万葉和歌はいつごろ、どのようにして発達したのか」という問題を追及してはならないタブーでもあるのでしょうか。少し注意書をしておきますが、有名な仁徳皇后の磐之姫の和歌をはじめ、5世紀や、6世紀の和歌はすべて仮託であり、読み人とされている人物の和歌ではありません。日本書紀や古事記の中の歌の大半は仮託、つまり偽物です。
「万葉和歌はいつごろ、どのようにして発達したのか」という問題について多くの国文学者に研究してほしいのですが、何十年待っても、そうした研究はなされないのです。真実を追求しないで、いくつかの和歌の解釈に終始するのが学問なのででしょうか。国文学者は真実を探求する意欲も能力もないのでしょうか。
実は「万葉和歌はいつごろ、どのようにして発達したのか」という問題は天智オオキミ、天武オオキミの素性に関わる大問題なのです。私は万葉和歌は653-655年ごろ、額田王によって最初に歌われたという結論を得ています。
いくら国文学者が真実を探求しようとしないとはいえ、東大名誉教授だった稲岡耕二氏も最初に万葉和歌を歌った人は額田王であることは指摘されています。管見では時期は明言されていないと思いますが額田王の最初の歌ですから653-655年ごろと同じ結論を出されていると思います。
問題は額田王や鏡女王の素性です。多くの学者が額田王や鏡女王を単なる宮廷歌人と見ています。しかし、当時の朝廷は改名権力を持っており、王族でもないのに王や女王を付けることは許されません。したがって額田王や鏡女王は王族のはずです。ところが倭国には額田王や鏡女王の出自となる王統が存在しないのです。鏡王の娘だとする説もありますが鏡王について何も分かっていないのが現状です。鏡女王(鏡姫王、鏡王女)のお墓は641年に百済宮で亡くなった舒明オオキミの陵墓域内にあります。私は鏡女王(藤原鎌足妃で不比等の母)は舒明オオキミの娘だと考えています。
当時、漢字の読み書きができるのは王族・貴族と一部の渡来系高級官僚だけであったと思います。女性で漢字を駆使できる人がいたかいないか、そういう時代です。そのような時代に漢字を駆使することができた女性王族の素性が分からないということは大きな問題で、国文学者は総力を挙げて解明するべきでしょう。国文学者は、分からないですますのではなく、奇妙なことになっている程度のことは指摘するべきだと思います。解明できないのはどこに問題があるのかぐらいは整理して人々に伝えるべきです。現状、万葉和歌の起源を正面から研究した国文学者さんがいないこと自体が問題でしょう。
考えるヒント
・倭国語(実用倭国語)の表記が始まったのは680年ごろ、つまり天武10年ころです。木簡や墓碑などから確認ができています。
・実用倭国語の表記が始まった680年より前の653-655年ごろに突然、万葉和歌が出現しています。つまり散文の前に韻文が、それも突然に出現しています。この突然性をどのように説明したらいいでしょうか。
・653-655年のほぼ10年前の643年(日本書紀では642年)、百済から翹岐王子、その母妹4人を含む総勢40人の百済王族、貴族が倭国に亡命しています。百済の武王が641年に亡くなった直後に起こったクーデターの結果です。この中に額田王はいたはずです。当時10歳前後で、彼女が倭国で成人となったのがちょうど653-655年頃です。
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+: 日本語と韓国語は極めてよく似た言語で語順はほぼ同じです。「てにをは」の使い方もほぼ同じです。しかし一方で漢字の発音は異なっており、日本語で一定の意味の漢字群が、韓国読みでは別の意味になることがあります。
+: そこで一定の漢字群を倭国風に読んだり、韓国風に読むというパズルができあがります(それは日本語と韓国語と両方が話せ、しかも日韓の漢字の音読み、訓読みができるという極めて限られた人たちの間でしか通用しない代物でした)。私は和歌の始まりはこうした漢字の日韓音訓パズル書きであったと推測しています(詳細については李寧煕氏の全著作を参照してください)。
+: 私見によれば、万葉集の日本語表現は653-655年ごろに全く突然に始まっています。あまりにも突然に登場しており、次第に発達していったという様相を示していないのです。しかも金石文などと比べて信じられないほど高い文化力、表現力を示しています。
+: そのために国文学者の方々は万葉集の日本語表現が653-655年ごろに登場したとは信じられないのでしょうか。稲岡氏の680年説が支持を得ているのは他に説明のしようがないと考えているからでしょう。しかし、信じられないから、存在していなかったとすることはできません。信じられないような言語表現が突然、出現しているのはなぜかと考えるのが正しい道です。稲岡氏の680年説は間違った柿本人麻呂像によっており、間違いの森の中をさまよっている論であることも拙著に書いています。