「全羅道は任那だった」

    古来、金海・釜山を含む南伽耶が任那と呼ばれ、また加羅諸国がまとめて任那と呼ばれていました。任那の語源については鮎貝氏の説がありますが、説得力がありません。今のところ語源は不明と言っていいと思います。朝鮮では任那という言葉は嫌われており、ほぼ抹消されていますが、一方で、倭国では頻繁に使われている言葉です(なぜ、朝鮮半島で嫌われているかを考えることも必要でしょう)。

 本投稿のテーマは「全羅道は任那だった」です。 この事実は意外と知られていませんが、重要な事実なので少し、説明しておきます。

 487年(東城王9年)に紀生磐の乱が全羅北道で起こっています。紀生磐は三韓(馬韓、辰韓、弁韓)の王になろうとして、宮府を整へ脩めて、自ら神聖と称したといいます。任那の左魯・那奇他甲背たちが計略を担当し高句麗と結んで百済人を殺害し、帯山に城を築き、道や港を塞ぐ妨害を行った。それに激怒した東城王は古爾解将軍を差し向け、激しい戦いの末に左魯・那奇他甲背をはじめ三百人近くが戦死したという。この舞台となった帯山城は全羅北道、井邑近辺です。

原文   *** 紀生磐(きのおいわ)宿禰、任那に跨び據りて、高麗に交通ふ。西に、三韓(馬韓、辰韓、弁韓、後の百済、新羅、加羅諸国)に王たらむとして、宮府を整へ脩めて、自ら神聖と稱る。任那の左魯(サロ)、那奇他甲背(ナカタカフハイ)等が計を用ゐて、百済の適莫爾解(チャクマクニゲ)を爾林(ニリム)に殺す。(爾林は高麗の地なり)帶山城(シトロモトノサシ)を築きて、東道を距き守る。粮運ぶ津を斷へて、軍をして飢ゑ困びしむ。百済の王、大きに怒りて、領軍古爾解(コ二ゲ)、内頭莫古解(マクコゲ)等を遣はして、衆を率て帶山に趣きて攻む。是に、生磐宿禰、軍を進めて逆撃つ。膽氣益壯にして、向ふ所皆破る。一を以て百に當つ。俄ありて兵盡き力竭く。事濟らざるを知りて、任那より歸る。是に由りて、百済國、佐魯、那奇他甲背等三百餘人を殺す。***

 「任那に跨び據りて」は全羅道が任那であることを示していると思います。任那の左魯(サロ)、那奇他甲背(ナカタカフハイ)等とありますが、この任那とは全羅道のことでしょう。はるばる南加羅から来るはずがありません。

 「全羅道が任那であった」ことは専門家には知られており、津田左右吉氏は、日本書紀編者らが、海外諸国を藩屏とする律令天皇制を宣伝するために任那を過度に観念の上で拡張したとして断定しています。後続の史学者も同様の意見のようです。しかし、私は上記のような詳細な情報を含む記事が単なる作文であるとは思えません。むしろ、任那の先入観にとらわれることなく、なぜ全羅道が任那であるのか考える努力が必要だと思います。津田氏の断定の背後には、任那という語が「南伽耶に語源があり、加羅諸国に意味が広がった」という先入観があります。
 
 全羅南北道、加羅諸国(7国から10国程度)、そして金海・釜山を含む南伽耶が任那と呼ばれていたという事実は私のミチュホ仮説ではうまく説明できです。任那の意味はその地の王を臣従させた後、領土を取り上げることなく任せておく、ただ臣従義務は守ることを求めたミチュホ王権の政策によって生み出された言葉だと思います。全羅南北道の北に位置する忠清南道の熊津を首都としていたミチュホ(建国王は百済の建国王の兄)はまず南進して全羅南北道を任那とし、東進して加羅諸国を任那とし、最後に金海・釜山を含む南伽耶を任那とした後に倭国に侵攻したと私は推測しています。倭国に侵攻する前に加羅7国を平定し、469年に新羅に侵攻したと考えられます。そうした史実が神功49年(469年)条の神功皇后による新羅侵攻と7国平定記事のもとになったと考えています。

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