応神朝と仁徳朝の交錯の謎
上石津ニサンザイ古墳(これまで履中陵とされていた)が大仙古墳(仁徳陵)よりも古いことが円筒埴輪の検討から分かっています。これまで通り上石津ニサンザイ古墳を履中陵だとしますと、大きな問題が生じてきます。私は上石津ニサンザイ古墳は仁徳王妃の磐之姫の墓と考えれば、上石津ニサンザイ古墳が大仙古墳(仁徳陵)よりも先にできたとしても問題がないことを示しました。
しかし、また別の問題が生じています。上石津ニサンザイ古墳、大仙古墳(仁徳陵)と古市古墳群の中の仲津山古墳と応神陵(誉田御廟山古墳)との時間的順序関係です。仲津山古墳の円筒埴輪には野焼きであることを示す黒斑がついていますが、応神陵(誉田御廟山古墳)の円筒埴輪には黒斑がなく、窯焼成によるものです。するとこの4つの大古墳について、まず古市の仲津山古墳ができ、次に百舌鳥の上石津ニサンザイ古墳(履中陵)ができ、次に古市の応神陵(誉田御廟山古墳)が築造され、最後に大仙古墳(仁徳陵)が築造されたことになります。
門脇禎二氏は次のように書いています。白石太一郎氏も同じようなことを書いています。
『古事記』・『日本書紀』では、応神陵が古市に営まれたあと、仁徳・履中・反正の墓は三代にわたって百舌鳥ということになっています。ところが、古市の仲ツ山古墳の次は百舌鳥の上石津ミサンザイ古墳、次は古市の誉田御廟山古墳、次は百舌烏の大仙陵というように、大王墓と想定される巨大古墳は、古市と百舌鳥の両古墳群で交互に営まれていて、『古事記』・『日本書紀』の順序とは合致しないわけです。これらの巨大古墳の相対編年については、多くの研究者の意見が一致していますから、このあたりの『古事記』・『日本書紀』の天皇の即位の順序についての記載は、そのままでは信じられないということになります。あるいは、即位の順序は正しくて、陵墓の所在についての記載が間違っているということかも知れません。
このように考古学者だけでなく、歴史学者も古市と百舌鳥で政権移動が行われるとみているわけです。これを白石太一郎氏は古市と百舌鳥の間で盟主権の交替があったのだと説明します。王権の移動ではなく同じヤマト王権の中の盟主権の交替として説明するわけです。ここでは応神も仁徳もどこかに吹き飛んで完全に無視されています。れっきとした応神大王、仁徳大王はどこにいったのでしょうか。何かが抜けている議論としか言えません。とくに私が強調したいのは白石太一郎説では応神陵と仁徳陵の超巨大性がまったく説明できないことです。
ここで私の説を紹介させていただきます。応神期、仁徳期の年表から説明します。応神期は370年ごろから412年まで、仁徳期は413年から430年までです。応神即位は390年ですが、ここでは理由があって370年からとしておきます。埴輪の窯焼成は須恵器の窯製法が倭国に入ってきてからです。一番古い須恵器は380年ごろですが、埴輪の焼成が始まったのは古市の墓山古墳からです。墓山古墳の前にできた仲津山古墳は野焼きです。墓山古墳がいつできたか正確なことは分かりませんが400年ごろという説があります。そして応神陵の埴輪が完成したのは410年ごろとみられます。
復習します。仲津山古墳は390年ごろで野焼き、墓山古墳は400年ごろで野焼きの埴輪と窯焼成の埴輪が混じっています。応神陵は410年ごろで窯焼成です。
412年、応神のミチュホ王権は仁徳の王権によって滅ぼされます。この時期には埴輪つくりの専門氏族の土師氏は古市の道明寺付近にいます。まだ百舌鳥には来ていません。415年ごろまでには古市から一部の土師氏を命令で呼び寄せたと思いますが、十分な人数ではなかった可能性があります。百舌鳥では、倭国随一の仁徳陵と第三位の上石津ミサンザイ古墳(磐之姫陵と推測)を寿慕として、そのころ作り始めますが、膨大な数量の埴輪を作るには窯が足りません。そこで上石津ミサンザイ古墳(磐之姫陵と推測)の埴輪は野焼きで、仁徳陵の埴輪は窯焼成にしたことが考えられます。つまり、上石津ミサンザイ古墳の埴輪は応神陵のものよりも6年ほど遅れて作られたのですが、窯焼成にできない事情があったということです。
このように考えれば大げさに百舌鳥と古市の間の盟主権の移動などという不明確な概念を用いる必要はないと思います。私見が必ずしも正しいとは言いませんが、専門家の先生にはもう少し考えていただきたいと思います。考古学が発見した新事実で日本書紀の間違いを明らかにしたと考えているようですが、国書である日本書紀をあまりにも簡単に無視しているのではないでしょうか。応神のミチュホ王権は仁徳の王権によって滅ぼされたという仮説につきましては私が8月に出した本をご参照いただければありがたいです。