古代王妃の陵墓

  三輪王権の崇神、垂仁、景行の三代の王の王妃墓を検討します。まず崇神王妃の御間城姫の陵墓は記紀に記載がありません。垂仁妃の日葉酢姫の陵墓は纏向地域から離れた佐紀古墳群にありますが、時代が合わないため、本当の日葉酢姫の墓とは考えられません。景行王妃の稲日稚郎姫の陵墓は兵庫県加古川市の日岡陵ですが墳長80mの古墳です。したがって三輪王権では王妃の墓を大きくする考え方はなかったと思います。

 三輪王権と比較して応神朝になると応神の王妃、仲津姫の巨大な陵墓、仲津山古墳(290m)が古市に作られています。おそらく、応神はミチュホ王権の巨大な権力を人々に印象付ける方法として王妃の陵墓を巨大化したと考えられます。

 さてここからはやや自信のない推論を提示したいと思います。それは佐紀古墳群の被葬者です。佐紀古墳群の被葬者としては神功王后、成務大王、日葉酢姫、磐之姫などがあがっていますが、実在が乏しい人物や、時代的に合わない人物ばかりです。真の被葬者ではないことはまず間違いないでしょう。佐紀古墳群の被葬者の手がかりはほとんどありませんが、佐紀古墳群の中のコナベ古墳は応神妃の小甂(こなべ)媛ではないかと宝賀寿男氏が指摘しています。

 仮にそれが正しいとすると応神には王后仲姫の姉の高城入姫、妹の弟姫、小甂媛とその姉の宮主宅媛、息長真若中比売などの妃がおり、小甂媛と同程度の陵墓が作られてもおかしくはないと考えられます。つまり、佐紀古墳群の五つの大古墳はこの5人の妃の墓であることが考えられるのです。仲津姫の陵墓は墳長290mですが、佐紀陵山古墳は207m、佐紀石塚古墳は218m、五社神古墳は267m、コナベ古墳は204m、市庭古墳は253mでつり合いは取れます。三人姉妹のうちの真ん中の女性が王妃だったとした場合、自分の姉と妹に大きい陵墓を望んだのかもしれません。

 強い推論ではありませんが、私は従来から佐紀古墳群は370年に倭国に侵攻した応神=ミチュホの王族の墓ではないかと考えており、ここに提示して批判を待ちたいと思います。ちなみに古市で最古の大型古墳である津堂城山古墳は王后仲姫、姉の高城入姫、妹の弟姫の父である品陀真若王の墓とする説があり、賛成です。また三人の姉妹をすべて王后、王妃にするのは北方騎馬民族の風習です。

 なぜこんなにも多くの妃の墓を次から次へと作ったかと言えば、ひとえにミチュホ王権の勢力を全国の人々に徹底的に知らしめるためであったと思います。実際に応神のミチュホ王権は荒々しい強権の王権だったと考えられ、皇帝級の権力をもっていたと思います。

 同じ論法で仁徳朝を見ていきますと、仁徳陵よりも古いと考えられている上石津ミサンザイ古墳(360m)は仁徳王后の磐之姫の陵である可能性が出てきます。また百舌鳥陵山古墳(186m)は、磐之姫の嫉妬の対象、八田若郎女の陵墓である可能性がでてきます。さらに想像を逞しくすると、上石津ミサンザイと墳形が似て時代も同じ時期の吉備の造山古墳(墳長全国第4位の350m)は吉備の黒姫の墓、日向にある九州第二の大古墳で上石津ミサンザイと同様に黒斑の埴輪を出す女狭穂塚古墳(180m)は日向髪長姫の墓である可能性があります。こちらも応神に負けず劣らず王権の勢力を誇示したのではないでしょうか。

順序が逆ですが、歴史学者の塚口義信先生をはじめ、多くの考古学の先生方が佐紀王権という言葉を用いています。日本書紀などにその根拠は全くなく、ただ大型の古墳が5,6基あることのみで佐紀王権を考えるのは大きな問題だと思います。佐紀古墳群があるから佐紀王権があるとするのは全く学問的ではないと思います。
 発売中の『真実を求めて 卑弥呼・邪馬台国と初期ヤマト王権』のご検討、ご批判お願いいたします。またFacebookに「応神・仁徳を研究する会」を作りましたのでよろしくお願いいたします。

いいなと思ったら応援しよう!