応神朝スケッチ
私は応神は370年に倭国に侵攻したとしていますが、その後の状況をスケッチ的に描いてみました。
応神は生まれたときから天皇(胎中天皇)であると書かれていますが390年に即位しています。
366年(神功紀46年条)「斯摩宿祢」という人物を倭国が伽耶の卓淳国(慶尚北道の大邱?)に派遣
註:仁藤敦氏によれば「斯摩宿祢」という人名は百済記の中の職麻那那加比跪からの造作
369年(神功紀49年条)神功皇后、新羅征伐。その後2将軍が加羅七国を平定した後、西に回り4つの村(クニ)と済州島を制覇して百済王に譲渡
註:①新羅征伐、②加羅七国平定、③西方攻略の史実性について論争があります。①新羅征伐につきましては広開土王碑(倭は百済、新羅を臣従させ.....)に基づいて肯定的な見解が多いようです。②加羅七国平定については津田左右吉・池内宏氏は史実性を否定、末松保和・三品彰英氏は史実性ありとしています。
371年(神功紀51年条)百済王朝貢
仁藤敦氏によればこの記事をはじめ百済の久氐と倭の千熊長彦の3年に亘る頻繁な往来の記事は造作
372年 百済王より七支刀を授受
註:私は369年と372年の事実性に基づき、応神は370年ごろに倭列島に侵攻したと判断しました。七支刀は百済王が海外とはほぼ無縁の三輪王権の王に贈与したと考えるよりも、百済の兄弟国ミチュホの王に倭国侵攻が成功したことを契機に贈呈したものと考えたからです。
376年 新羅王奈解即位 (丙子196)+180=376年 (宝賀説)
377年 新羅王(奈解であろう)、中国に遣使
382年 (神功62年条) 新羅が朝貢せず、襲津彦を遣わして新羅を討たせた。
註:369年に新羅侵攻したからこそ、この記事が出てくると思います。
新羅王楼寒(奈解であろう)、中国に遣使
385年 (神功65年条) 百濟枕流王薨。王子阿花、年少。叔父辰斯、奪立爲王
389年 浦上八国乱
390年 応神即位
391年(応神2年) 于道朱君(うちすくね)が新羅の大将軍于老を火あぶりの刑に処した。
註:宝賀寿男氏は于道朱君は葛城襲津彦の父とされる武内宿禰であろうと指摘
この年から応神軍は朝鮮半島に大挙渡ったと考えます。半島にミチュホの故地(忠清南道、全羅道)があったからです。学説はどこに倭軍が駐屯しているのか明らかにしていませんが、おそらく百済に駐屯したと考えているのでしょう。この時期には忠清南道、全羅南北道はまだ百済領になっていないことに注意が必要です。
392年(応神3年) 百済の辰斯王が位につき、倭国に対して失礼があったので紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰らを百済に派遣して𠮟責した。そこで百済国は辰斯王を殺して謝ったので、阿花を王にして帰国した。(是歲、百濟辰斯王立之、失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰、嘖讓其无禮狀。由是、百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿禰等、便立阿花爲王而歸。)
(辰斯王は三国史記では392年に亡くなっています。その年が応神3年であるとしますと応神即位は390年になります。日本書紀は応神即位を270年にしていますので、その差は120年です。古代の年号は干支で書かれていますので、年号を移動させるには60年またはその倍数を動かすのが手っ取り早い方法で、応神期は本当の年号と120年ずれていることになります)
このあたりの記事は倭国が高句麗と戦ったのはけっして百済の要請によるものではなく、ミチュホの古代帝国主義的体質によるものであることを示していると思います。
396年(応神7年)任那人渡来 この記事で加羅人はなく任那人となっていることは注目するべきです。加羅人ではなく任那人なのです。任那は応神が全羅道から東進して倭国に達するまでに作ったもので、応神朝は任那という言葉を好んでいたと考えられます。
397年(応神8年)直支王が質として来倭
最近の学説は質は対等な国家間で成立すると主張していますが、無理な説だと思います。
註:397年は、高句麗軍が百済に攻め込んで700村58城を陥落させた年です。百済王は広開土王に以後、臣従すると誓っています。その直後に倭国に質を出しています。百済は高句麗にも倭国にも臣従の姿勢を示さなければならない窮迫の事態になっていました。
403年(応神14年) 百済王 縫衣工女を派遣。弓月君百二十県の民を率いて来倭を希望するも新羅が3年間も妨害。平群木菟宿禰と的戸田宿禰を派遣して来倭を実現
註:397年以後、おそらく数年間、百済およびその南方のミチュホは壊滅状態になっていたでしょう。400年に新羅に多数の倭人が集結しています。新羅王は国内の治安が維持できなくなり、広開土王に支援を求めます。広開土王は5万の軍勢を新羅に派遣して新羅王を助けたので、新羅王は臣従を誓います。
多数の倭人がどこから集結したのでしょうか。加羅地方からであったとする説がありますが、なぜ新羅に集まったのでしょうか。私は百済南方のミチュホ(忠清南道、全羅道)の倭人が新羅に集結したと考えています。397年以後数年間、ミチュホは高句麗軍に荒らしまわられたので高句麗軍の締め付けを緩和する陽動作戦として、住民を新羅に行かせたと思います。また難民として倭国に向かう人も多くいたと思います。弓月君が120県の人民を率いて倭国にきたのはそのような背景があったからです。
404年(応神15年) 阿直岐が良馬2匹を連れて来倭。倭国水軍が帯方沖で高句麗軍によって壊滅されます。
405年(応神16年) 王仁来倭。百済の阿花王が薨去したので応神は直支王を帰国させます。
409年(応神20年) 倭漢直の祖阿知使主と其子の都加使主が己が党類(ともがら)十七県を連れて来倭
註:400年に倭人は新羅から追い出されますが、その直後、広開土王軍は一時、北に戻ります。後燕が高句麗に侵攻してきたからです。百済とミチュホは小康状態を迎えます。404年、ミチュホは起死回生を狙って水軍を帯方沖まで送りますが、壊滅されてしまいます。
407年、ミチュホ倭軍は今度は陸で高句麗軍と戦いますが、こちらも壊滅されます。407年以後、南朝鮮で戦争はピタッとなくなります。ミチュホ倭国軍が倭列島に撤退したからでしょう。またこの戦いで応神は戦死したと推測します。応神が亡くなったことが撤退の引き金になったと考えます。
高句麗紀によりますと408年8月に広開土王は南巡に出かけます。それ以後、記事がなくなり、412年、突然、39歳の若さで亡くなったことになっています。南巡先は倭国であったと私は考えています(小林恵子説)。
?(応神28年) 高麗王の上表文 「高麗の王、倭王に教う」
註:前述のようにすでに応神は亡くなっているので倭王は宇治稚郎子になっています。この高麗王は広開土王で、宇治稚郎子に書簡を送っています。書簡を読んだ宇治稚郎子は無礼であると言って書簡を破り捨てています。おそらく「私が倭国を治めるから、汝は速やかに降参せよ」といった内容だったでしょう(小林恵子氏も同意見)。
応神28年は417年ですが413年に仁徳朝が成立しています。私見では広開土王が倭国に侵攻したのは408年ですから 「高麗の王、倭王に教う」の記事は408年か409年ではないかと思います。この記事以後の年号には信憑性はないと思います。
?(応神37年) 阿知使主を呉(南朝)に派遣
原文:卅七年春二月戊午朔、遣阿知使主・都加使主於吳、令求縫工女。爰阿知使主等、渡高麗國、欲達于吳。則至高麗、更不知道路、乞知道者於高麗。高麗王、乃副久禮波・久禮志二人爲導者、由是得通吳。吳王於是、與工女兄媛・弟媛・吳織・穴織四婦女
応神37年となっていますが、すでに仁徳紀になっているはずです。仁徳の425年の朝貢かと思います。
?(応神41年) 応神崩御
応神41年は単純計算で430年です。ちょうど仁徳崩御の年になります。このように応神紀の最後の辺りは仁徳期になっているようです。