履中陵が仁徳陵よりも早く作られたという謎

 履中陵(365m)から採取された円筒埴輪には黒斑が付いています。したがってその円筒埴輪は野焼きで作られたことが分かっています。一方、履中の父である仁徳の陵墓から採取された円筒埴輪には黒斑がないので窯焼成で作られたと考えられています。そこで黒斑が付いている円筒埴輪(Ⅲ期)をもつ履中陵の方が、黒斑がない円筒埴輪(Ⅳ期)をもつ仁徳陵(486m)よりも古いことになり、その解決法が求められており、一部の学説は上石津ミサンザイ古墳こそが仁徳の陵墓であり、大仙古墳(仁徳陵と言われている)が履中の陵墓だとしています。

 この点については私は仁徳は仁徳朝の始祖王であり、大仙古墳は仁徳の墓で間違いがないと思います。仁徳朝の始祖王という認識についての説明は割愛しますが、敢えて一つだけ根拠を挙げておきます。応神が亡くなった後、倭国の大王位を譲り合った末、自殺した宇治稚郎子の墓がない(明治に作られた偽物の墓はあります)のに、自殺現場まで駆けつけて弟の宇治稚郎子の死を悼んだという仁徳の墓が超巨大であることです。あまりにもアンバランスで互いに大王位を譲り合ったというのは嘘で、互いに大王位を奪い合ったと考えられます。応神の後継者とされた宇治稚郎子の墓がないことは軽視するべきではないでしょう。そしてなぜ仁徳陵はあれほど巨大なのかと考えた場合、王権の始祖とすれば納得がいく話になります。

 私は真の履中の陵は大仙古墳(仁徳陵)の後に築造されたことが確実な土師ニサンザイ古墳(300m)であると思います。ではこれまで履中陵とされていた上石津ミサンザイ古墳は誰の墓であるかということになりますが、私は仁徳陵と同じ方向に仁徳陵とペアで作られた観があるこの古墳は妃であった磐之姫の陵墓だと推測します。磐之姫陵は佐紀古墳群の中にあるヒシャゲ古墳だとされていますが、なぜ仁徳勢力の王妃の墓が佐紀古墳群(私見では応神勢力の古墳群)の中にあるのか疑問に思います。応神の場合は応神陵の近くにその妃であった仲津姫の陵墓とみられる仲津山古墳があることも参考になるでしょう。

 仁徳期は私見では413年から430年までの17年間ですが、寿墓として仁徳陵と上石津ミサンザイ古墳が並行的に築造されたために大量の埴輪を同時に作らなければならなくなったことが考えられます。両古墳は倭国の首位と三位の超大古墳です。膨大な埴輪が必要です。すべてを窯焼成することが困難な状況であり、王妃陵の埴輪は野焼きで、仁徳陵の埴輪は窯焼成で製作されたのではないでしょうか。今のところ、このような可能性もあるので、上石津ミサンザイ古墳こそが仁徳の陵墓であり、大仙古墳(仁徳陵と言われている)が履中の陵墓とまでは断言できないと考えます。

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