18. 専門家の皆さん、答えてください「なぜ仁徳陵と応神陵はあれほど大きいのか」
仁徳陵と応神陵は5世紀の歴史の証拠物件である。なぜあれほど大きいのか。
私はいつも専門家の先生になぜ仁徳陵と応神陵はあれほど大きいのかを説明して欲しいと思っていた。
なぜあれほど大きいかが説明できないかぎり5世紀の歴史を解いたことにはならない。早く解明していただきたいものである。
実は私は5世紀の歴史について一定の史観をもっており、私の『古代史の仮説I そらみちゅやまと』の中で説明している。自分で言うのも何であるがかなりの力作である。5世紀の歴史を考える上で何かしらの参考になればと思っている。
そのエキスだけを書くと、なぜ仁徳陵と応神陵はあれほど大きいかというとそれぞれ二つの大戦争があったからである。一つは応神勢力と三輪王権(纏向王権、崇神朝)の戦いで、この戦いの捕虜が応神陵工事に駆り出された。もう一つの戦いは応神承継勢力と広開土王(仁徳)勢力との戦いで、この大戦争の捕虜が仁徳陵の工事に従事させられた。
これには考古学的な証拠がある。田中晋作氏の研究で4世紀末から5世紀初頭の古墳は大きく二分されるという。一つは三角縁神獣鏡を埋蔵している古墳群、今一つ甲冑を埋蔵している古墳群である。三角縁神獣鏡と甲冑をいずれも埋蔵している古墳もないことはないが、数が少ないという。重要なことは三角縁神獣鏡古墳群と甲冑古墳群が截然と区別できるということである。三角縁神獣鏡古墳群は4世紀初めから始まり、4世紀末まで続くが突然に消滅しているらしい。
明らかに三角縁神獣鏡古墳群は三輪王権(纏向王権、崇神朝)のもので、これが壊滅させられ、突然に甲冑古墳群が現れている。この考古学的成果は私の史観に完全に一致する。
補足であるが仁徳陵からは高句麗の王族の甲冑と言ってもいいような甲冑があったことが分かっている。
本稿は専門家に対する「お願い」を書いたもので、私の史観は敢えて詳細には論じなかった。詳細は『古代史の仮説I そらみちゅやまと』(Kindle出版)を読んでください。