アマテラスの前の国家神 タカミムスヒ
一 タカミムスヒからアマテラスへ
古代の倭国の皇祖神はアマテラスではなくタカミムスヒであったという認識は最初に松前健、岡正雄、上田正昭、岡田精司氏などによって主張された。松前氏があげる根拠は次のようなものであった。(松前健氏も上田正昭氏もムスヒとするべきところをムスビとしているが、そのまま残した。)①宮廷の大嘗・新嘗祭の主祭神は、中世以後は天照大神となっているが、古くはその痕跡がない。②前項の主祭神は、古くは生産の神であるタカミムスビと稲米の霊ミケツカミの二者であった。③宮廷の王権神話の中核である天孫降臨神話は、その素朴な形の伝えでは、タカミムスビが司令者で天照大神は出ていない。④天照大神の登場する説話は、みな後期的な発達の形を持ったものばかりで、政治色が濃い。⑤タカミムスビは皇室固有の神で、その原型は、田の側に立てられる神木をヨリシロとした農耕神である。⑥天照大神の祭祀は宮廷では古くは行なわれた痕跡がない。⑦天照大神の崇拝および神話は、伊勢のローカルな太陽神だったこの神を、政治的な政策によって宮廷がパンテオンに取りこみ、皇祖神に仕立てあげたことによる。⑧天照大神とタカミムスビがならんで命令を下している『古事記』などの二元位の形は、決して先住民族対侵入支配民族などのような民族史的解釈で説明すべきものではなく、大和朝廷の祖神タカミムビ、伊勢の日神アマテラスとの崇拝の融合・合体というような、政治的・歴史的な事情によって説明すべきものである。(1)。
上田正昭氏が挙げた論拠の主なものは次のようである。①中つ国平定の神話と天孫降臨の神話においてタカミムスビを司令神とする伝承の方が多く、アマテラスのみを司令神とするものは第一の一書(『日本書紀』)だけである。これから見るとタカミムスビこそが高天原の主宰神とあおがれた段階があったと考えられる。②『日本書紀』の中つ国平定と天孫降臨の神話の本文部分の最初に「皇祖高皇産霊尊」と明記されている。皇祖という表現が神代史でもっとも早く用いられているのはタカミムスビである。③『日本書紀』の神武天皇即位前紀に神武がみずからタカミムスビを「顕斎」する話がのっている。④出雲国造の神賀詞においてタカミムスビは「高天原の神王タカミムスビノミコト」と称され、この神による中つ国平定がはっきりと示されている(2)。
両氏の指摘されている根拠のうち、タカミムスヒを農業神とする見解には賛成できないが、アマテラス以前にタカミムスヒが国家神として宮廷で祀られていた根拠はおおむね、ここに示されている。タカミムスヒからアマテラスに皇祖神が交代したという認識はほぼ通説になっているようである。次の問題はなぜ皇祖神の交代が起こっているのかということであり、諸説あるが、私は端的にそれまでの大王制に代わって藤原京で天皇制が出現したからであると思う。私見ではそれ以外の理由は考えられない。問題をなぜ皇祖神の交代が起こったのかという側面でのみ考えると諸説のいずれが正しいかは判定し難く、私は方法論としてよろしくないと思う。皇祖神の交代の問題は伊勢神宮の創設と関連づけて考えるべきで、また天皇という呼称がいつ始まったか、現人神思想はいつごろ出現したかなどを総合的俯瞰的に考えて解決するべきであろう。藤原京ではその外にも、大嘗祭の開始、天皇即位式の開始、中臣神道の祝詞の出現、斎宮制の開始、そして宣命の出現、大宝律令など天皇制事項が目白押しで出現しており、そうした一連の事象との整合性の上で考えるべきであろう(私見:同時出現説)。さらになぜ着々と天皇制が整っていったかという問題があるが、私は天武天皇、持統天皇がリードしたとはとても思えない。明確な天皇制イメージをもった強力な指導者が背後で指導していたからこそ、わずか十年程度で天皇制が創造され、完成したのである(私見:明確な天皇制イメージをもった強力な指導者存在説)。その指導者は藤原不比等であると考えるが、詳細は別稿で論じている。ここではタカミムスヒについてのみ検討する。
古事記にはタカミムスヒの出現を次のように書いている。天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、高天原に成れる神の名は、天之御中主(アメノミナカヌシ)神。次に高御産巣日(タカミムスヒ)神、次に神産巣日(カミムスヒ)神。此の三柱の神は並(みな)独神(ひとりがみ)と成り坐して、身を隠したまひき。つまり天地開闢にあたり、天之御中主(アメノミナカヌシ)神、高御産巣日(タカミムスヒ)神、神産巣日神の三神が出現したが、身を隠したというのである。しかし、その後、タカミムスヒはなぜか再び出現して天孫降臨から神武天皇即位までを指揮監督している。天孫降臨については、当初はタカミムスヒの命を受けたアマテラスが自分の子であるアメノオシホミミに葦原中国(あしはらのなかつくに)つまり地上に降臨することを指示する。しかしアメノオシホミミはタカミムスヒとアマテラスの両者の血統を継ぐホノニニギを降らすことを進言する。アメノオシホミミはタカミムスヒの娘栲幡千千姫命(タクハタチジヒメ)と結婚し、その間に生まれたのがホノニニギである。この進言は受け入れられてアマテラスと「別天つ神」であるタカミムスヒの血統を引くホノニニギが天孫降臨することになったのである。私は天孫降臨を始め、アマテラス関連の神話はすべて藤原宮で藤原不比等の指導の下に創作されたものであると考えているが、アメノオシホミミを降下させることをやめてホノニニギを降下させたというところに不比等の考えを垣間見ることができると思う。不比等としては藤原京以前に宮中で祀られていた国家神であるタカミムスヒに代えて新たにアマテラスを国家神にしたいのであるが、それまでの国家神であるタカミムスヒを無視することはできない。これまでの王室の経緯を知っている多くの氏族がいるからである。そこでタカミムスヒの孫であり、同時にアマテラスの孫でもあるニニギを地上に降臨させれば文句は出てこないと考えたのであろう。またこの神話の創作中に持統の息子の草壁皇子が突然に亡くなったという事情もあった。日本書紀のある一書はアマテラスの息子のオシホミミを降臨させている。この一書は草壁皇子が亡くなる前に考案されていたと推定できる。草壁皇子が薨去したという現実を前に、草壁皇子の子の軽皇子、つまり持統の孫に皇位をつなげる意図もあって、オシホミミではなく皇孫のニニギを降臨させる案がでてきたのであろう。いずれにせよ、天孫降臨の段ではタカミムスヒはアマテラスと並んで司令神になっている。
ニニギが天孫降臨をしてから後、その曾孫、アマテラスの五世の孫である神武(ヒコホホデミ)が九州からヤマトに攻め上る。出発に際して神武は兄弟や子供に「昔、高皇産霊尊と天照大神が、この豊葦原瑞穂国を、祖先のニニギ尊に授けられた。そこでニニギ尊は天の戸をおし開き、路をおし分け先払いを走らせておいでになった」と語っている。ここでは高皇産霊尊と天照大神を並列させている。そして東征に成功した神武四年二月に神武は「わが皇祖の霊が、天から降り眺められて、我が身を助けて下さった。今、多くの敵はすべて平げて天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい」と言って神々の祀りの場を、鳥見山の中に設けて高皇産霊尊を祀っている。なぜか、ここには天照大神はいない。高皇産霊しかいないのは、真の歴史に即しており、ある意味では当然だと思う。これらの記事から分かることはタカミムスヒとアマテラスが天の最高神であることである。そしてある場面では両者を並べ、ある場合にはアマテラスのみ、またはタカミムスヒのみにしているのは、日本書紀編集者の工夫によるものである。前述の通り、天皇制を作った不比等としてはアマテラスのみにしたいのであるが、他の氏族のこともあり、タカミムスヒを無視できないという事情があるからである。それまでの国家神はタカミムスヒであったこと、そしてこの藤原京で天皇制を作り上げるためにアマテラスに交代させようとしていることがよく分かる。
二 タカミムスヒと本居宣長(ムスヒの意味)
本居宣長は、日本書紀は漢心(からごころ)、つまり中国人の曲がった心で書かれているとこき下ろす一方で古事記は日本人の素直な心で書かれていると激賞している。ところがタカミムスヒの解釈については古事記の「高御産巣日神」という表記ではなく日本書紀の「高皇産霊尊」という表記を用いて考えていく。本居宣長は古事記伝の中で次のように書いている。「書紀はとにかく中国の史書に似せようとして文を飾っているが、記はそうしたことに関係なく、ただいにしえから伝わる言葉をそのまま伝えようとしている。そもそも意(こころ)と事(こと)と言(ことば)とは一致しているはずのもので、上代は意も事も言も上代、後代は意も事も言も後代、中国は意も事も言も中国であるが、書紀は後代の意に基づいて上代の事を記し、中国の言を用いて皇国(みくに)の意を表そうとしたため、一致しない点が多いのに、古事記は少しもさかしらの作り事を加えず、昔から言い伝えたままに記録されたものなので、その意と事と言がしっくりと適合していて、みな上代の真実である。これはもっぱら上代の言葉をもって書かれたからだろう、すべて意も事も、言をもって伝えるのだから、「書」というものは、そこに記された言辞こそ主体となる。書紀は漢国の文を意図して書かれたため、皇国の古い言葉のあやは失われていることが多いが、この記は古言のままなので、上代の言の文も極めて美しい」。ここまで古事記の「言葉」にこだわる人が古事記の「高御産巣日」という表記を捨てて日本書紀の「高皇産霊尊」という表記を採用しているのである。本居宣長はなぜ自分が大好きな古事記の「高御産巣日」を採用しないで、漢心(からごころ)で書かれたと言う大嫌いな日本書紀の「高皇産霊」という表記を採用したのか、説明するべきだったと思う。何の説明もなく、日=霊であると断言しているが、そこにエビデンスは皆無である。実は宣長は古事記の解釈に日本書紀の内容を援用していく方法論をとっており、そこから日=霊=毘であるという主張をしているのであるが、方法論が間違っていると言うべきである。日=霊という結論が出てくること自体、方法論が間違っている証拠であろう。私はタカミムスヒの漢字表記は古くから、つまり、五世紀、六世紀から「高御産巣日」だったと思う。「高皇産霊尊」という表記は古事記が世に出た七一二年以後に不比等と中臣臣麻呂が国選の歴史書に相応しい表記に書き換えたものであろう。ところがご都合主義の本居宣長は自分の企てる神学には霊という漢字を含む「高皇産霊尊」という表記が相応しいので気にいったようである。もっぱらこの霊という漢字を中心に独自の神学を作っていく。しかし、タカミムスヒの「ヒ」は霊ではなく、日であるから、本居宣長は出発点で大きな間違いを犯している。そして結局、ムスヒという言葉を解明しないまま、独自神学を深化させている。合理的な思考からすれば、意味の分からない言葉を根拠にして思想を組み立てることはできないし、そのようなことはするべきではないと思うが、宣長は合理的な思考を漢心(からごころ)として放棄している。恐ろしいことにこのような基礎を欠いた思想であっても、やまと言葉に学識のある本居宣長の言うことだということで、現代の学者がムスヒの「ヒ」とは日なのか霊なのかと論争しているのである。「宣長はムスヒという言葉の意味も解明できていない」という意味で本居宣長神学には基礎がないことは指摘しておきたいと思う。その一方で、本居宣長ほどやまと言葉について造詣の深い学者はいないことも確かである。その本居宣長が「ムスヒ」の意味を説明できていないことは重く考えるべきである。近代では民族学者折口信夫氏が「ムスヒ」の意味を追求して挫折している。折口信夫氏は、タカミムスヒはタカミムスビであるとして「ムスビ=結び」の意味を追求した。「結び」という行為に深い神道的な意味があると考えて思想を展開したが、基礎が間違っていたので、挫折している。なぜかと言いうと、日本書紀神代上には「皇産霊、此をば美武須毗(みムスヒ)と云ふ」という注意書きがあり、この最後の毗という漢字は「ビ」と濁ることはなく、必ず「ヒ」と清音で発音されることが論証されたのである。「ムスビ」という発音は平安時代ごろからの間違った発音であることが分かり、折口信夫説は成り立たないことが明確になったのである。
私は今後も日本語として「ムスヒ」の意味を説明できる人物が現れるとは思わない。やまと言葉の学識が圧倒的に高い本居宣長でも解明できなかったのである。そういう意味で私は本居宣長と折口信夫は「ムスヒ」が生来の日本語ではなく外来語であることを逆説的に証明してくれたと思っている。キリストという言葉を生来の日本語として説明するのが困難であるのと同じである。ここでは「ムスヒ」は外来語としか考えられないことだけを強調しておきたい。
松前健氏、上田正昭、田村圓澄氏はタカミムスヒを農業神としている。なぜそのような考えになるのであろうか。おそらくタカミムスヒが新嘗祭の祭神であり、一方新嘗祭は農業的なイメージの祭りであることからそのように考えたと思うが、それだけで結論を出すべきではない。新嘗祭の祭神となっているのは国家神であることを示しているだけであり、新嘗祭の祭神だから農業神と結論付けることはできないと思う。特に後述するようにカミムスヒを先祖とする氏族が大伴氏、物部氏、久米氏などという軍事氏族であることを考えると農業神と考えるのは無理があると思う。
通説は「タカミムスヒは、本来は高木が神格化されたもの」とし、「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神である」と言っているが、こうした見解は、ムスヒの意味も解明できていないのに、字ずらで解釈を進めており、大きな問題があると思う。ムスヒの表記は古事記では産巣日、日本書紀では産霊、『延喜式』神名帳では産日としている。また『延喜式』祝詞ではムスとヒを分解しないでムスヒを一体として魂という漢字で表している。産巣日を産霊にするのも乱暴だと思うが、それがさらに魂にまでなっていくのである。こうなれば何でもありという状況で本当の意味から大きくずれてしまっている。シンプルに考えて一番最初の表記が一番語源に近いはずであり、ヒ=日を中心において考察するべきであろう。逆に魂=ムスヒという立場に立って真実が見つかるはずがなかろう。ヒは霊ではなく日であることは万葉集を少し調べれば分かることである。まず霊という漢字は「ヒ」とは読めない漢字である。そして霊(ヒ)を読んだ万葉和歌は一首もない。それは藤原京の時代には霊(ヒ)という思想がなかったことを示している。また『延喜式』神名帳には宮中八神殿の神の名前が書かれているが、そのうち「ムスヒ」のつく神は神産日神(カミムスビ)、高御産日神(タカギムスビ)、玉積産日神(タマツメムスビ)、生産日神(イクムスビ)、足産日神(タルムスビ)となっていて、すべて「日」であり、「霊」という神がいないことからも明らかである。「霊」という漢字を使い始めたのは七二〇年の日本書紀以後のことであろう。忌部氏の『古語拾遺』ではこれらの神の名に「霊」という漢字を使っているが、古くから使われていたという証拠にはならない。『古語拾遺』は八〇七年(平安時代)に書かれた新しい資料なのである。また、人麻呂は長皇子賛歌で「八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而」(やすみしし わごおほきみ たかひかる わがひのみこの うまなめて)と歌い、新田部皇子賛歌で「八隅知之 吾大王 高輝 日之皇子 茂座 大殿於」(やすみしし わごおほきみ たかてらす ひのみこ しきいます おほとののうへに)と歌っており、「日乃皇子」を十三首の歌の中で歌っているが、この日乃神はアマテラスではなく、タカミムスヒである。なぜならこの当時、アマテラスはまだ「天照日女之命」と言われていた時代であり、まだ「大日孁貴」=アマテラスにはなっていなかったからである。人麻呂の歌は六九〇年の持統即位前には歌われており、一方、伊勢神宮が完成したのは六九八年(文武二年)である。したがって日神であるタカミムスヒの「ヒ」が霊であるはずはないのである。またタカミムスヒは出雲国造神賀詞に高天原の神王と書かれているが、この表記は日神と考えれば納得がいくが、逆に高天原の神王が「霊」だというのは理解が困難である。日の神、月の神、火の神、花の神、穀物の神などの中で「霊」の神はあまりにも違和感がありすぎである。
ヒが「日」であるか「霊」であるかという議論の元は古事記の「産巣日」と日本書紀の「産霊」の表記の違いにある。古事記は七一二年に公表され、日本書紀は七二〇年に公表されているので、普通に考えれば古い方の表記が本来の表記と考えられる。私はこの立場であり、古事記の「産巣日」が数百年伝わってきた本来の表記であり、日本書紀の「産霊」の表記は本来の表記を神秘的なものにしたいと考えて藤原不比等と中臣臣麻呂らが相談(仮説)して作り出したと思う。日本書紀は古事記の倭文的表記を漢文的にしたという面はあるであろうが、その場合でも「産巣日」の巣をとって「産日」にとどめるべきで勝手気儘に「産霊」とするべきではなかったと思う。とにかくタカミムスヒが高天原のリーダーであったことを含めて総合的俯瞰的に判断する必要があり、不比等が権力を乱用して採用したと考えられる「霊」という漢字に攪乱されないように注意するべきであろう。
三 タカミムスヒ氏族
倭国では古くから天孫思想が存在したことが推測されるが、その天孫思想はいつごろ生まれたのであろうかということが問題になる。その問題を考える場合にキーとなるのはタカミムスヒを祖先とする氏族の存在である。またそれはタカミムスヒという神の実体を明らかにする上で、欠くべからず視点である。タカミムスヒは藤原京で大王家がアマテラスを祖先神として祭り始めるまで、国家神として祭られていたが、氏族の中では大伴氏、物部氏、久米氏の祖がタカミムスヒから出ている。大王家と代表的な連(直属の部下、いわゆる旗本御家人)である大伴氏、物部氏がタカミムスヒの子孫ということになっているが、この(タカミムスヒ)トリオ、もしくはカルテットがどのように形成されてきたかということは重要な研究課題になる。四世紀の日本書紀の記事の中にその手掛かりはない。敢えて探せば、それより前の「神武紀」に大伴氏がタカミムスヒを祭っている記事であるが、「神武紀」は紀元前六六〇年ということになるので、事実であるはずがない。したがって「神武紀」は創作になるわけであるが、その創作に当たって古い記事をいくつか参考にしたことが考えられ、またモデルとなった大王がヤマトに進出した事実をベースにしている可能性がある。いずれにせよ、大王家が祭っていたタカミムスヒを大王の直属の部下、あるいは近衛兵的な大伴氏が祭っており、大王家の祭祀に中臣氏は蚊帳の外であるという認識は重要である。私の考えでは中臣氏が祭祀に関わってくるのはアマテラスが出現し、祝詞を開発した藤原京時代以後である。それより前の中臣関連の記事は攪乱記事である。ちなみに祝詞は人麻呂の長歌に触発されてできたと考えられるので、祝詞が現れるのは柿本人麻呂が長歌を歌い始めた六八六年以後のことである。中臣神道は祝詞神道であることから、祝詞のことを考えてもデビューは藤原京になる。中臣氏は古くは卜占を職種としていたということになっているが、いつごろ卜占から祝詞神道へと職種が代わったのか不明で、これを研究し、明確に説明できている学説はないと思う。ここで言いたいことは大王家の祭事は古くは中臣氏ではなく、大伴氏が行っていたということである。大伴氏は大王家と同じタカミムスヒを祭る氏族であるが、中臣氏はアマテラスを祭る氏族だという事実は重要であろう。
私は神武紀でモデルとなった大王は広開土王であったと考えている。私見では広開土王は四〇八年に倭国に侵攻し、四一三年に倭国王仁徳として即位している(3)。そして神武紀の記述は広開土王がヤマトに進出した事実をベースにしている可能性があることを前提にして神武即位前の記事を読んでいくと、久米部の活躍に目が行くのである。神武の軍隊の主力が、大伴氏が率いる久米部であることと、神武紀に天神という言葉がやたら多く出てくるのは高句麗から天神思想が初めて倭国に入ってきたときの状況を伝えていると思う。広開土王の祖国である高句麗は天神思想が生まれた国柄であることを考えると、天神について多く語られている意味がよく分かるのである。そしてその中で久米部が久米歌を歌った軍事氏族であると考えるとこの久米とは「コマ」であり、高句麗軍である可能性が考えられるのである。久米(くめ)歌は来目(こめ)歌であり高句麗語(こま)の歌であった可能性がある。戦闘歌舞の代表といえる久米舞は高句麗舞だった可能性があるのである(四七五年、高句麗の長寿王の軍隊が百済を滅ぼしたときの記事の中で高句麗軍を狛大軍(コマの大軍)と表記している。これに限らず、高句麗は「コマ」と言われていたことは公知の事実である)。この久米部が大伴氏の指揮下にあったと書紀は伝えているが、大王家、大伴氏、戦闘部隊の久米部がすべてタカミムスヒ氏族であることは注目するべきである。なぜこのトリオは同じタカミムスヒを祭るのであろうか。歴史上、どこかで一体となっていた時期があったはずである。この神武のヤマト侵攻はその一つのシーンだと思うのである。
なぜ大王家と大伴氏や久米部が同じタカミムスヒの子孫なのかということについて四世紀の三輪纏向王権の歴史には手掛かりはない。したがって四世紀以後のことになるが、一番考えられる時期はやはり五世紀で、その中で最も史実を隠している書き方になっている仁徳紀が怪しいのである。皇后の嫉妬の話をうんざりするほど詳細に記述し、まるで真実を伝える気持ちが伝わってこないのは仁徳紀だからである。ということは、仁徳は高句麗王の広開土王であった可能性がここでも強く考えられるのである。仁徳は高句麗王の広開土王であったとすれば、大王家、大伴氏、久米部という五世紀のタカミムスヒトリオの成立がすんなりと説明できる。また四世紀の三輪山信仰などとはレベルが違う、一段と抽象的な天孫思想がこの時期に倭国に入ってきたことも、うまく説明できる。四世紀にはアマテラスが出現していることを記述した捏造記事があり、これによって長い間、アマテラスはとにかく古い二世紀、三世紀、四世紀からの神であると考えられ、教えられてきたが、もうそろそろ本当の歴史に気が付いてもいいのではないか。四世紀のオオクニヌシ信仰や三輪山信仰と、大王が日神の子孫であるとする天孫思想は連続性がない。その連続性のない神話をまとめて連続性があるように仕上げたのが国譲りなどの話であるが、四世紀に出現した物語のはずがない。アマテラス神話は結局のところ高句麗の天孫思想の改訂版である。改定前の天孫思想、つまり大王は日の神の子孫であるとする思想は広開土王とともに五世紀初頭に倭国にきたと考えればすべてがうまくつながるのである。その天孫思想は上述のように六九〇年ごろの柿本人麻呂の長歌の中に残っている。そしてタカミムスヒの天孫思想をアマテラスの天孫思想に切り替えるために膨大な資料を収集し、物語を創作したのが藤原京であった。指導者は当然、藤原不比等である。
四 タカミムスヒと朝鮮半島
高句麗では天帝の子を「解慕漱(ヘモス)」と言う。この解慕漱(ヘモス)の子が高句麗の建国王の朱蒙である。解慕漱(ヘモス)の解「へ」は日という意味である。韓国語では太陽を意味する日はすべて「ヒ」ではなく、「ヘ」と発音する。日本でも古代に日置氏と言われる氏族がいたが、これは「ヒオキ」と読む他に「ヘキ」と読む場合があり、こちらの方が古い読み方であると本居宣長は言っている。ところでこの解という漢字は高句麗王家の王の名前に入っている。例えば初代から衆解、解儒留、解朱留、解色朱、解愛婁などである。溝口睦子氏は、解は高句麗王家の名字として使われているが、元々は名字ではなく、名前の最後についていたことを論証されている。つまり解儒留、解朱留、解色朱、解愛婁などという王の名前は、元々は儒留解、朱留解、色朱解、愛婁解となっていたのである。高句麗が中国の王朝と交流をするようになったとき、それまで姓をもっていなかったために解を前に持ってきて姓にしたのである(4)。したがって天帝の子解慕漱(ヘモス)も元は慕漱解(モスヘ)と呼ばれていたのである。そして韓国語の「ヘ」は日本に来ると「ヒ」に変わるので「モスヘ」は日本に来ると「モスヒ」に変わるのである。広開土王が持ってきた「モスへ」は「モスヒ」と発音され、「ムスヒ」と転音しているのである。溝口睦子氏はタカミムスヒが外来神であることのその他の根拠をいくつか挙げられている。例えば日本書紀の顕宗紀三年条では、この神が壱岐・対馬の「月神」や「日神」の祖で「天地を鎔造せる功」があったという記述があり、やはり農業的な神でないことを示している。また前述のように出雲国造神賀詞には高天原の神王と書かれており、神々のキングだという認識もあったようである。
さてムスヒは天帝の子の名前ヘモスだとして、タカミムスヒは別名、高木の神と呼ばれているのはなぜであろうか。多くの学説が高木の神とは文字通り高い木を神格化したものだとしているが、それは、タカミムスヒは農業神であるという前提に立ち、しかも漢字の表記に引きずられた解釈としか言えないと思う。ムスヒとは何かが分かってはじめて高木の神の意味が分かるはずであろう。ムスヒの意味が解明できていないのに、どうして高木の神の意味が分かるのであろうか。高い木がどのような経緯で高木の神になり、それがどうしてタカミムスヒと呼ばれ、高天原の神々の王になっているのか、経緯を説明して欲しいと思うのである。ムスヒのヒを日と解釈しても霊と解釈しても、高木の神が高い木を神格化したという解釈とはなじまないと思う。このタカギについては、本居宣長は次のように説明しており、今のところこの説でいいのではないかと思っている(確信ではないが)。宣長は活杙神の例を挙げて説明している。活杙神は宮中八神殿の第四殿の祭神である「生産日(いくむすび)神」の別名であるが、宣長はその理由として、「杙(ぐい)」は「ぐみ」と通い、「ぐむ」と活用する言葉、「出始める」という意味なので、活杙=生産日になると言っている。細かい点は不明であるが、活杙=生産日になるのであれば、高(御)産日=高杙(ぐい)となり、その「高杙(ぐい)」が、後に「高ぎ」という発音に変化したと考えれば巧く説明できる。
ここで述べた「ムスヒは天帝の子の名前ヘモスだ」という主張は実は仁徳大王は高句麗の広開土王であるという私の主張の一環である。王権が来たからこそ、その王権の信仰対象である神が来たと言えると思う。この点、溝口睦子氏は、タカミムスヒは外来の神であるという事実を発見されたにも関わらず王権が直接侵攻してきたとは考えていない。外国の神の輸入と考えられている。確かに異国の神の輸入という点では後に仏教の受容という歴史的事実があるが、仏典や仏像、寺院といった総合文化と言う側面の強い仏教は比較にならないと思う。私は広開土王体制が五世紀の倭国の枠組みであると考えているので、当然、広開土王はタカミムスヒという高句麗の天神を我が国にもってきたと考えている。広開土王が来ているからタカミムスヒが来ている。タカミムスヒが来ているから広開土王が来ていると言えると考えている。
五 タカミムスヒ氏族の大伴氏と物部氏
大伴氏がタカミムスヒ氏族であることは系図上から明らかである。大伴家持は陸奥国に金が発見されたときの詔書を賀す歌一首、并せて短歌(一八四〇九四)の中で次のように歌っている。
大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主(おおくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立(ことだて)て 丈夫の 清きその名を古(いにしえ)よ 今の現(をつつ)に 流さへる祖(おや)の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず大君(おほきみ)に まつろふものと 言ひ継げる 言(こと)の官(つかさ)ぞ 梓弓(あずさゆみ)手に取り持ちて剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩(は)き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の御言(みこと)のさきの聞けば貴み
この歌は大伴家持が古くから大伴家に伝わる歴史と誇りを明らかにした歌である。大王の側近として古くから大王を守ってきたのはけっして他の氏族ではなく、大伴氏と佐伯氏であり、海へ行こうが、山へ行こうが、おおきみのそばで死ぬ覚悟がありますと歌っている。「他の氏族ではなく、大伴氏こそが天皇の守り手である」ことを訴えているのである。不比等の策略であっという間に勢力を伸ばしてきた新興氏族藤原氏に対する真の大王側近氏族であった大伴氏の焦りが読み取れる。この歌の中でも大伴が久米(コマ)氏族であることも示している。コマは高句麗を表す古語である。
物部氏については、系図上は明確に示されていないので、検討が必要である。溝口睦子氏は次のように推論をして、タカミムスヒ氏族であると主張している。以下、引用する。
『物部の祖先、ニギハヤヒは天つ神の子である(記紀ともに明記。天孫がもっているのと同じ天つ神の「天羽羽矢及び歩靭」をニギハヤヒももっていたとされている)。右の天つ神とは、タカミムスヒのことを指している(記紀には「天つ神」としか書かれていないが、種々の点からみてそれはタカミムスヒだと推定される)。『旧事本紀』の「天孫本紀」において、タカミムスヒはニギハヤヒのことを「我御子」と呼び、また地上におけるニギハヤヒの死を知ったタカミムスヒが、哀泣して速飄命にその屍骸を天上に持って来させ葬儀を行ったことが書かれている(「天孫本紀」が、物部氏の家紀・本系の類を元にして書かれたものであることは広く認められている。したがってニギハヤヒをタカミムスヒの子とするのは物部氏自身の表明するところである) 』(5)。
物部氏がタカミムスヒ氏族であることを推定させるものとしてフツノミタマがある。物部氏は五世紀ごろから(日本書紀では四世紀とするが信憑性がない)大王家の武器庫であった石上神社を管理しているが、その祭神が霊刀フツノミタマである(佐士布都神とも布都御魂とも言う)。フツは『日本書紀』で武甕槌神とともに行動する経津主神などと共通するがどのような意味なのかが問題である。『日本書紀』では、フツノミタマを「韴霊」と書く。中国の字書『玉篇』、『広韻』などに「韴」の字義が「断声」とあることから、フツの語は、「プッツリ」と物を断ち切ることの形容という説がある。しかし、私はおそらくフツの意味が分からなくなった時代に中国語文献を探して韴という字をみつけ、採用しただけのことだと思う。「プッツリ」の御霊は滑稽だと思う。「プッツリ」という意味から、悪魔を断ち切ることを意味すると解する説もあるが、悪魔を断ち切るという観念を「プッツリ」という音に託したとするのも信じがたい。私はフツを、神霊の降臨にまつわる光や輝きを意味すると解して、古代朝鮮語で輝く意味を持つpurkと同系統の語と捉える三品彰英説に賛成である。またフツは布留(フル)と同じ意味であろう。フツノミタマを祭る石上神社は布留にある。韓国語でフルと発音していたものが倭国でフツになった可能性が高い。なぜかというと韓国語にはツ(tsu)という音がないからである。韓国からの留学生が「ツ」の発音ができなくて苦労している。私見では倭国語の港を意味する津(ツ)は韓国語の入るという意味の(トゥル)から来ている。船が入ってくるからである。トゥルがツに転音している。古代にミチュホという国があったが倭国ではミツホに転音している。鶴は韓国語ではトゥルミであるが倭国ではツルに、ロープやコードを意味する韓国語のトゥルが倭国ではツル(蔓)になっている。また語尾のルという子音は倭国ではツ行の音になる。例えば日は韓国語では「イル」であるが日本語では「ニチ」になり、語尾のルがチに変化している。数字の一も同様で、韓国語では「イル」であるが日本語では「イチ」となる。したがって半島での「フル」は倭国では「フツ」に転音した(韓国語でフツという発音はない)と考えられる。つまり、起源は朝鮮半島で「フル」だったものが、倭国で転音して「フツ」となったと推測される。そこで注目されるのは三品彰英氏が扶餘王解夫婁(へブル)と朱蒙は同一人物であると指摘していることである(6)。三品彰英氏にしたがって解夫婁と朱蒙の関係について検討する。まず『旧三国史』逸文・『三国史』では解夫婁(へブル)は朱蒙の祖父である。この場合、解夫婁は天帝と同位になる。ところが『三国遺事・北扶余伝』が引用する古記に「ㇸモスの子が夫婁」とあり、また『世宗実録』地理誌の檀君古記には檀君の子が夫婁とあり、次のように纏めることができる。
天帝―ㇸモス―朱蒙(『旧三国史』逸文・『三国史』)
天帝―ㇸモス―夫婁(『三国遺事・北扶余伝』が引用する古記)
帝釈の子恒雄―檀君―夫婁(『世宗実録』地理誌の檀君古記)
こうしたことから今西竜氏は夫婁(へブル)と朱蒙の同一人説を採っており、三品彰英氏も踏襲しているのである。今西竜、三品彰英氏は朱蒙が東明王とも呼ばれていることに注目し、東明王はpurk(光輝く)を意味し、フルもPurkから来る言葉であることもその根拠にしている。つまり、東明=朱蒙と夫婁は、元々はpurk(光輝く)という意味で共通しているのである。系図については異なった系図が複数あり、混乱状態となっていが、兄弟説と同一人説にまとめることができよう。私は朱蒙の兄弟が活躍したという話がないことから、同一人説でいいと考える。仮に同一人であるとするとフツのミタマという刀はフルのミタマで朱蒙の刀という解釈が可能となる。本稿では日本書紀神武紀の神武軍には広開土王軍の面影があることを主張しているが、神武軍が敗色濃厚になったとき、フツノミタマが出現したことは広開土王軍を朱蒙の霊刀が支援したことになる。しかもこのフツノミタマを持参したのは高倉下(タカクラジ)という神であり、いかにも高句麗に関係のありそうな名前である。ちなみに高倉下(タカクラジ)は饒速日(ニギハヤヒ:物部氏の祖)の子である。そして神武に現れたのは金鵄という金色のトビであったが、広開土王の国鳥は三本足のカラスである。ヤマトの南方の熊野神社(熊野は「コマの」の可能性がある)では三本足のカラスをシンボルにしている。こうした推測が妄想でなければ、フツノミタマを祀っている物部氏は高句麗から来た可能性が高いと言えると思う。
フツノミタマは布留の石上神社で祀っているが、関東起源のタケフツとかフツヌシという神も存在する。タケフツとは建布都神で、古事記では通常は建御雷神(たけみかづちのかみ)の名で知られる。『日本書紀』では武甕槌や武甕雷男神と表記されるが元々は鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神である。フツヌシとは日本書紀で経津主神(ふつぬしのかみ)、『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』では布都怒志命(ふつぬしのみこと)、『常陸国風土記』では普都大神(ふつのおおかみ)となっている。元々は香取神宮(千葉県香取市)の祭神である。横田健一氏は次のように述べている。『物部氏が、大和朝廷の東国鎮定の代官となってフツノミタマを奉じ、多くの軍国、職業部を伴って五世紀末、六世紀初頭に常陸の支配者となった。フツの大神は分化して建御雷と斎主ないし布都主となり、鹿島と香取の二宮に分かれた。六世紀末葉に物部氏の衰退とともに地方でも次第に衰退をはじめた。代わって中臣氏が中央政界に台頭し、七世紀前半頃までに、その得意とする新しい大陸系の卜占法-亀ト法などをもって、物部の旧地盤であった有力古社の祭記権をも奪取したのであろう(7)』。鹿島神宮の祭神も、香取神宮の祭神も等しく「フツ」という神名の神を祭っていることは中臣氏が簒奪する前には物部氏が祀っていた可能性が極めて高いと考えられ、ここでも物部=フツの等式が成り立ち、ひいては物部=朱蒙となってくるのである。中臣氏は私見では六四三年に倭国に亡命してきた氏族であり、鹿島神宮、香取神宮の祭神を簒奪したのは、七世紀も後半の孝徳紀以降であると考えられるが、大筋は賛成である。中臣のアメノコヤネも新しい神であるが、鹿島神宮、香取神宮の祭神であるタケフツとかフツヌシを藤原氏の祭神にしたのは比較的新しいことである。もと中臣氏であった藤原氏の氏神を祭っている春日神社を検討すると事情がよく分かる。春日神社の由来として奈良に遷都された七一〇年(和銅三年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのに始まるとする説がある。これは一般的に史実ではないと考えられている。一方、社伝では、七六八年(神護景雲二年)に藤原永手が鹿島神宮の武甕槌命、香取神宮の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓に四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。春日神社の祭神は武甕槌命、経津主命、天児屋根命・比売神の四神となったのである。藤原氏の氏神なるものが、この時代になってやっと固まってくるのである。それまで中臣はどのような神を祀り、神と人との中を取り持っていたのであろうか。
溝口睦子氏はまた大伴氏の祖先名が外の氏族とは異なる特徴を有していることを指摘している。それはその名前が「ヒ」で終わっていることで、これは他の氏族にはみられないものである。まず大伴氏の先祖の名前は味日(うましひ)、稚日(わかひ)、大日、角日、豊日と「ヒ」型となっている。溝口睦子氏は大伴氏の「ヒ」型について四世紀に大伴氏が多くの他の氏族とは異なる文化圏にいたという印象を語っている。以下引用する(8)。
『本章は、大伴氏の系譜を特徴づけている「ヒ」型人名について、このタイプの人名が、文献の中でどのような位置づけにあり、またどのような性格や特徴をもっているのかを、三節に分けて探ってきた。
その概略を個条書きにして記すと、およそ次の通りである。
(一)「ヒ」型人名は文献中における用例数が少ない。応神以前の人名としては比較的特殊なタイプである。
(二) 分布が、天皇名の他には、大伴・物部など、伴造系の氏に片寄っている。
(三) 天孫降臨神話の主神であり、また同時に本来の皇祖神でもあったタカミムスヒと密接な関連をもっている。
(四) タカミムスヒの「ヒ」の本来の意味は、太陽を意味する「日」と考えられる。したがって「ヒ」型人名のヒも、その元の意味は「日」であったと思われる。
(五) 朝鮮半島の古代王国、高句麗・百済・新羅・加羅に、日本の「ヒ」型と全く同一形式で同一の意義内容をもつ、「❘解」あるいは「❘日」の形式の神・人名がある。
(六) 朝鮮半島における右の神・人名は、いずれも扶余系の建国神話における始祖神(王)名であったり、また、その血統を引く(と考えられた)王名・王族名・貴族名などであったりしている。ヒ型人名の性格について考える上でとくに重要だと思われる点を、概略以上のようにあげてきた。最後に右から導き出される日本のヒ型神・人名の特徴について改めてまとめておくと、まずヒ型人名は、タカミムスヒなどヒ型の神が、記紀神話の中で比較的孤立した存在であるのと軌を一にして、分布上からみて孤立した存在であるが(ヒコ・ミ・ネといった類型の人名が、広い分布をもち、弥生に遡る統一国家成立以前の地域首長の称号的名称であったであろうと推定されるのに対してきわめて対照的である)、しかし分布は狭くとも、このタイプは建国神話中できわめて枢要な中心的な地位を占めるという特徴をもっている。ところが、この日本のヒ型神・人名と全く同一といってよい神・人名が、朝鮮半島の古代諸王国に存在する。それらの神・人名は、それぞれの国においてやはり日神の子の天降りによる建国という、王者の起源村話と密接に結びついている。
一方、日本の建国神話の中核をなす天孫降臨神話が、高句麗の朱蒙神話などと同系統の神話であることは、すでに繰り返し説かれている。このようにみてくると、日本のヒ型神・人名について、これを大王家が扶余系の建国神話を取り入れた際同時に朝鮮半島から入ってきた、もともとは扶余にその源を発する朝鮮半島系の神・人名であろうとみるのは、ごく当然の推理だといっていいだろう。日本のヒ型神・人名のもつ諸特徴は、どの点からみてもこの推理を裏切らない。』
溝口睦子氏はこのように述べて、ヒ型神・人名の朝鮮系であることを力説されている一方で、そうした影響は文化の輸入によるものとしている。私は溝口睦子氏の研究は素晴らしい啓蒙的なものであると思っているが、結論の部分には異を唱えたい。私見では大伴氏自身が朝鮮文化をもって倭国へきたのである。大伴氏は広開土王に従属する形で倭国に来たと考えられ、時期は五世紀初頭である。四世紀には倭国にまだ日本には来ていなかったはずで、それが他の氏族と大伴氏の違いになっていると考える。
以上のように、両氏はともにタカミムスヒ氏族であり、「ヒ」型氏族であるという共通点があるが、さらに両氏の本貫地が河内平野であるということも共通している。大伴氏が摂津国・河内国の沿岸地方や紀ノ国、物部氏が河内国渋川郡でいずれも、五世紀に西方から河内平野に上陸して軍陣を整えたところが本貫地になっていると考えられ、両氏が「大王」に従属して倭国に渡来したことが推測されるのである
六 伊勢神宮の歴史
タカミムスヒが、アマテラスが出現する以前の国家神であることをより明確にするには伊勢神宮の歴史、斎宮制度の歴史を検討する必要がある。伊勢神宮の歴史について以下、簡単にまとまたが、本稿は日本書紀や古事記の中の天皇制起源と藤原(中臣)氏に関連する記事については攪乱記事、あるいは捏造記事が多いという認識に基づいている。私が研究した限りでは藤原京時代から奈良時代かけてほぼ三十五年間、最高権力者であった藤原不比等が古事記、及び日本書紀の実質上の編集者である。そうした認識でみると、藤原不比等が古事記、及び日本書紀のあちらこちらで粉飾させた記事が見つかる。
まず伊勢神宮はいつできたのかという問題がある。四世紀の垂仁二十五年条に丁巳年冬十月甲子「伊勢国渡遇宮に大神宮を選す」という記事がある。「(垂仁天皇は)天照大神を豊鍬入姫命からはなして、倭姫命に託された。倭姫命は大神を鎮座申し上げるところを探して、宇陀の篠幡(ささはた)に行った。さらに引返して近江国に入り、美濃をめぐって伊勢国に至った。そのとき天照大神は、倭姫命に教えていわれるのに、「伊勢国はしきりに浪の打ち寄せる、傍国(中心ではないが)の美しい国である。この国に居りたいと思う」と。そこで大神のことばのままに、その祠を伊勢国に立てられた。そして斎宮(斎王のこもる宮)を五十鈴川のほとりに立てた。これを磯宮という。天照大神が始めて天より降られたところである」。これが攪乱記事の最初である。これをそのまま事実であると思っている学者もいるようであるが、岡田精司、松前健氏はこれを否定して、伊勢神宮ができたのは雄略朝であったとしている。垂仁二十五年条の丁巳年冬十月甲子の丁巳年を四七七年と解するのだそうである。岡田氏によると、神宮のご神体である神鏡奉安の御船代という聖なる容器があり、その形は古墳時代中期から後期にかけての舟形石棺・木棺の形と酷似しており、縄かけ突起のついた形など、後者の形を模したものであり、その盛行した時代と一致するのだそうである。また『日本書紀』の雄略朝には、崇神・垂仁以後は無記載であったのに、突然伊勢斎王の名が出てくることも指摘されている。この斎王は、葛城円大臣の女韓媛と天皇の子で、ワカタラシ姫と言うが、この斎王の別名とされるタクハタ(栲幡)姫の奇怪な話がある。タクハタ姫は湯人の男との不倫を疑われ、神鏡をもち出して五十鈴川のほとりに神鏡を埋め、自殺したという伝承があり、川上に虹がたつているところを探すと神鏡が出てきたという話になっている。松前健氏は「ともかく雄略朝に伊勢斎王の伝承があるのは、注目に価する」と書かれているが、この四七七年の記事も、斎宮制度の歴史を検討すると攪乱記事であると考えられる。四世紀の垂仁二十五年の記事は攪乱記事と見破ったようであるが、雄略朝の記事には攪乱されたようである。私はこうした攪乱記事に攪乱されないためには、天皇制がいつできたかというテーマをしっかりと検討し、天皇という呼称も含めた現人神天皇制とアマテラスと伊勢神宮がほぼ同時期に出現したとする「同時出現説」を採用するべきであると思っている。
藤原京と伊勢神宮はいずれも北緯34度29分のところにある。正確に言うと内宮は北緯34度27分、外宮は北緯34度29分である。緯度が同じであることは藤原京時代に伊勢神宮が作られたことを率直に示している。藤原不比等が藤原京と同じ緯度にこだわって新しく作る伊勢神宮の敷地を選定したからであろう。四世紀や五世紀に皇室の祖先を祀る神社が伊勢にあったとすると、なぜこの一致が起こっているのか説明が困難になるであろう。この事実一つをみても四世紀や五世紀から皇室の祖先を祀る神社が伊勢になかったことが分かる。
七 斎宮の歴史
次に伊勢神宮の歴史とも関係がある斎宮の歴史についてもみていきたい。まず崇神王時代に宮中で豊鍬入姫に祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑に祭らせたという記事がある。次に垂仁王時代に倭姫命が各地を巡行し伊勢国に辿りつき、そこに天照大神を祭ったという記事がある。景行紀に五百野王女に天照大神を祭らせたという記事(令祭天照大神)があり、また仲哀期に伊和志真を斎宮にしたという記事(『斎宮記に名前のみ)がある。これらはすべて四世紀のことである。ところが五世紀になると斎王については前述した雄略大王のときに栲幡姫の記事があるだけで、外には何もない。その記事には「侍伊勢大神祠」と書かれていて伊勢神宮とはなっていない。攪乱記事であるが、さすがに伊勢神宮とは書けなかったので伊勢大神祠としている。六世紀には継体、欽明、敏達、用明期に荳角、磐隈、菟道、酢香手姫の記事があるが、斎宮の荳角(侍伊勢大神祠)、磐隈(初侍祀於伊勢大神)、菟道(侍伊勢祠。即奸池辺皇子)、酢香手姫(拝伊勢神宮、奉日神祀)らは伊勢にきていない。筑紫申真氏はこれらの女性は伊勢に来ていなかったことを論証している。例えば菟道王女は池辺皇子に犯されたということになっているが、当時から伊勢に男性皇族が住んでいるはずはなく、伊勢での出来事とは考えられないと指摘している。斎宮の奉仕場所は最初の三人は伊勢大神祠や伊勢祠となっているが、酢香手姫の時には明確に伊勢神宮になっている。最初から伊勢神宮と書くことができないので、伊勢大神祠という名称で少しずつ慣らして、酢香手姫のときに伊勢神宮としたわけである。酢香手姫は用明大王の娘で、五八五年に用明が即位したときに伊勢神宮に斎宮としてきてから三十七年も斎宮職をつとめ、六二一年(推古二十九年)もしくは六二二年(推古三十年)に退下したことになっている。こうした記事は、伊勢神宮も斎宮制が古くからあり、当然に天皇制も古くからあったと人々に思わせることを目的に書かれていると考えられる。伊勢神宮ができるのは持統期から文武期であるということをしっかり認識していれば、騙されることはないであろうが、しっかりと考え抜かないでぼんやりと日本書紀だけを読んでいると容易に騙されてしまう。また天皇制事項(天皇という呼称、現人神思想、伊勢神宮の創設、斎宮制度、即位式、祝詞、大嘗祭、アマテラスの出現)は同時に出現したとする私の仮説(同時出現説)にたてば、四世紀にアマテラスが出現するはずもなく、四世紀の伊勢神宮創設起源の記事は攪乱記事であることは容易に分かるはずである。アマテラスの前の国家神としてタカミムスヒがいたという事実だけでも四世紀にアマテラスが出現していたことを否定するエビデンスであろう。とすれば当然に斎宮が四世紀や五世紀にいたという話も攪乱記事であることが分かってくる。さて六二二年(推古)に酢香手姫が退下するとその後は、斎宮はぴたりと消えており、次に出現するのは五十年後の天武紀である。壬申の乱が終息した六七三年に天武の娘であり、大津王子の姉である大来王女が伊勢に斎宮として派遣されている。五十年以上も途絶えていたのである。どうして推古朝以後、天武朝まで斎宮がいないのか。これは推古朝以前の斎宮の記事が攪乱記事、つまり捏造記事だからである。ひとびとに皇室が古くからあるのだという印象操作をしているのである。結論を言うと斎宮制度ができたのは持統期の多紀皇女の時である。但し、六七三年に天武が大来王女を伊勢に行かせて伊勢大神に仕えさせたことが、契機になっていることは確かである。注意すべきはそのころまでは伊勢の大神というのは雨風の神、自然神であり、皇室の祖先神であるアマテラスではないことである。天武は壬申の乱の最中である六七三年に朝明郡迹太川辺で天照大神を望拝した。この天照大神は完全に攪乱記事である、なぜなら六七三年にアマテラスは出現していないからである。筑紫申真氏はこれを「アマテルオオカミ」と読むと解釈して、アマテルオオカミが祭られていたケースを想定しているが、無理にそのような解釈を考える必要はないと思う。仮に筑紫申真氏が言うように伊勢大神が「アマテルオオカミ」であり天照大神と表記されていたのなら、外のところでも伊勢大神と書くべきではなく天照大神と書くべきであろう。天武のときに限って伊勢大神ではなく、天照大神と書く必然性はない。天照大神を「アマテラスオオミカミ」ではなく「アマテルオオカミ」であったというのでは問題をさらに混乱させるだけだと思う。天武紀の天照大神は攪乱記事であるとして処理すればすむことであろう。しかし、逆に伊勢皇大神宮の歴史を捏造するためには不比等は、ここは伊勢大神とは書けなかったと思う。天武の時代にまで伊勢大神であったとすると伊勢皇大神宮はいつできたのかと誰もが考えるようになり、そうすればアマテラスの歴史が容易に解明されるという差し障りが生じるからである。天照大神としたところに不比等の作戦が感じられる。おや、変だなと思っても、前後の表記を比較して研究しない限り、その矛盾を指摘することは困難であることを知って、さっと攪乱情報を流して印象操作をしているのである。検察調書絶対主義で騙されてはいけない。天武及び持統期の天照大神という名称の出現状況をみると天武紀の初年に天照大神が二か所に現れ、以後、持統紀の終わりまでに「伊勢大神」「伊勢神宮」「伊勢神祠」などの名称が続き、「天照大神」は現れていない。これを見ると天武紀の天照大神という名称は早出しなのであるが、攪乱するためには必要な表示であったとも言える。
天照大神が四世紀に誕生したというのは早すぎるが、天武のころには出現したとする学者の方も多い。例えば田村圓澄氏は、天照大神は最初、天武の頭脳の中に現れたという表現をしており、天武発案と考えている。伊勢神宮の遷宮について長谷日出夫氏は『古事記の真実』の中で「遷宮制度成立の時期は、正史に明記されているわけではない。だが、さまざまな考証によって、天武朝の末期に発案され、持統朝の初期に第一回の遷宮が行なわれた。つまり創始者は天武天皇であるということに、専門の学者の説は、ほぼ一致している」と書いている。遷宮の創始者は天武であると考えているということは伊勢神宮の成立はそれより前になるわけであるが、私は伊勢神宮の成立について論じることなく、遷宮を論ずること自体が間違いのもとだと思う。伊勢神宮はいつできたのかということは、天皇制はいつできたのかという問題と関係している。私は「天皇制はいつできたのか」という本質的な問題を追及しないで、遷宮はいつから始まったのかなどという順序の間違った考え方をしているから、間違った結論になっていくと思う。天皇制はいつできたのか、現人神思想はいつ、どのような経緯で出現したのか、天皇という呼称はいつ始まったのか、アマテラスはいつ出現したのか、伊勢神宮はいつ、どのような経緯でできたのかを総合的に検討することが必要である。そのような総合的な研究なしで、日本書紀の天武の条にある一文(天照大神を望拝した)や、大嘗祭が天武大王時代に行われていたことなどを根拠に考えを進める専門家が多いと思う。しかし、『日本書紀』に記されているというのは決してエビデンスにはならない。私は天皇制の起源を総合的に考える場合、天皇即位に関わる大嘗祭が天武の時に始まったという記事は再検討するべきであると思う。何らかの農業に関わる王室の儀式はあった可能性はあるが、その儀式を大嘗祭と名付けて天皇即位の儀式にしたのが天武紀であったかどうかは、天皇制の起源を研究してはじめて結論が得られると思う。
八 「ムスヒ」とはどういう意味か
本稿で私が研究対象としたのは「ムスヒ」とはどういう意味かということであり、その中でも「ヒ」とはどういう意味かということである。「ムスヒ」とはどういう意味かということと「ヒ」とはどういう意味かという二つの問いには本来は順番があって、「ムスヒ」の意味が分からないのに「ヒ」の意味を考えるのはやや問題がある。ただ、「ムスヒ」の意味は直ちには分からないが、「ヒ」の意味が分かれば「ムス」の意味も分かるだろうという手法もあるかとは思うので、「ヒ」について考えていきたい。
これまでの学説上の争いは「ヒ」とは「日」の意味か「霊」の意味かということであるが、これは非常に重要な論争になる。特に「霊」の意味と考える本居宣長や、その系統の国文学者はそのよって立つ基盤の問題になるので事は重大である。しかし、真実は一つである。いずれが正しいか、決着を付けなければならない。結論から言うとこの「ヒ」は太陽という意味の「日」で間違いないと思う。その理由としてすでに書いていることも含めて以下に列挙した。
(一)「ムスヒ」の表記は古事記に書かれている「産巣日」及び『延喜式』神名帳に書かれている「産日」が本来の表記だと考えられる。公式文書の『延喜式』神名帳では神産日神(かみむすびのかみ)、高御産日神(たかみむすびのかみ)、玉積産日神(たまつめむすびのかみ)、生産日神(いくむすびのかみ)足産日神(たるむすびのかみ)など「ヒ」のつく神の名は例外なくすべて日になっている。それが宮中のしきたりであったはずで、日本書紀の表記はおしゃれに書き換えた攪乱表記の可能性が非常に高いと思う。
(二)万葉集を検討する限り奈良時代より前に「霊」の思想はない。霊という漢字を用いた歌は奈良時代には数首現れるが、それ以前には一首もない。奈良時代ということは日本書紀が世に出た後であるから、「霊」の思想が出現したとしても、その影響だと考えられる。ちなみに奈良時代の数首でも「霊」は「たま」か「くすし」と読んでおり、「ひ」と読む和歌は皆無である。
(三)高皇産霊という表記であるが産霊は決して「むすひ」とは読めない。決して読めないのに読ませるこの横暴さを、私は藤原不比等がおしゃれ書きにしたと表現している。最高権力者の攪乱表記と言ってもいいと思う。また皇という漢字が用いられ出したのは人麻呂が六八六年ごろ以降に「日の皇子」などの表記で用いたのが最初であり、それ以前に皇という漢字の入った高皇産霊という表記が出現することはありえない。つまり、高皇産霊という表記は伝統のある古くからの表記ではない。古事記が世に出た七一二年以後に考え付かれた表記である。人麻呂はなぜ六八六年ごろ以降に「日の皇子」などの表記を用いたのであろうか。それは当時の権力者で現人神思想に基づく天皇制を作り上げることを考えていた藤原不比等の影響によるものである。
(四)人麻呂が六八六年ごろ以降に「日の皇子」と歌った日神はかつてアマテラスのことと考えられていたが、時期的にアマテラスが誕生する前であり、アマテラスのはずがない。この当時、大王は日神の子孫であるとする思想があったと考えられるが、その日神として考えられるのはタカミムスヒしかいない。ということはタカミムスヒのヒは太陽の意味の日ということになる
(五)以上はムスヒという意味は取りあえず置いて、ヒという意味のみを考えてもヒは日であり霊ではありえないことを示したが、前述のようにムスヒはモスへが我が国に入ったもので、一体として考えるべきだと思う。ところで、産巣日という表記であるが、私は五世紀初頭、広開土王が倭国に侵攻して以後、早い時期にモスへの訳語として現れたと思う。私には当時の高句麗語の知識がなにので、モスが何を意味するかは解らないが「産みだす」という意味だったと思う。モスへとはあらゆるものを生み出す天帝=日という意味だと考えられる。
この考えを裏付ける事実がある。新羅の第二代国王に南解(ナムへ)という国王がいた。第二代となっているが、実際には初代国王だったという研究結果が出ている。この南解(ナムへ)の解(へ)は太陽という意味である。南という漢字の訓はアルで、卵(アル)という意味につながり、「出生するとか出現する」とかの意味になる。それに間違いがなければ南解(ナムへ)も生み出す日の意味になり、産巣日と同じ意味になります。したがってこの南解(ナムへ)という王名もモスへを新羅に導入する際にその意味をとって訳出した結果だと考えられる。産巣日も南解もモスへの訳語であった可能性が高い。本稿では割愛するが、これは新羅だけでなく加羅諸国にも同様の訳出経緯の王名があるようである(9)。
こうして考えていくと、ムスヒという意味が分からないのにヒについてのみ考えるのは順序が違うのではないかと私は指摘したが、結果的にはそこには問題がないことが明らかになった。高句麗からムスヒという神が倭国に入ってくる段階で、ムスヒは産巣日もしくは産日と正しく訳されていたのである。ムスヒを産巣日としたのは単なる思い付きではなく、高句麗語と日本語の両方が分かる人がきちんと意味を考えて訳出していたという事実があったのである。産巣日は訳語だったのである。耶蘇教という言葉がある。耶蘇の意味を和語でいくら追求しても意味は不明である。耶蘇はイエスの訳語だからである。産巣日を和語で意味の解明ができなかったのは訳語だったからである。私は前々からムスヒという言葉の意味が分からないのに、なぜ本居宣長はムスを「生み出す」という、結果的に正しい意味にとったのか、不思議に思っていた。宣長が「生み出す」という意味をとったのは単に「産」という漢字で表記されていたからだと思う。たったそれだけのことである。ムスヒという言葉の意味は解明できていないのに、産という漢字のみを手掛かりにしているだけで、和語としては説明できていないのである。宣長はムスヒとは「凡て物を生成(な)すことの霊異(くしび)なる御霊」と書いている。「霊異(くしび)なる御霊」は一体、どこから来るのであろうか。それこそエビデンスを示してほしいと思う。ここでエビデンスというのはムスヒの本当の意味である。宣長がしていることはムスヒという外来語が意味を含めて「産巣日」と正しく訳されていたのに、適当に「産霊」に変えて独自の神学を作っていくことである。この宣長の「霊異(くしび)なる御霊」説は神道関係者だけでなく、多くの歴史学者、民俗学者の支持を得ている。私が優れた学者だと思っていた三品彰英氏の著作でも、宣長説を躊躇なく支持している。なぜ、エビデンスのない「霊異(くしび)なる御霊」説が多くの歴史学者、民俗学者によって支持されるのか。諸学者の再考を求めたい。
最後に日と霊についてまとめておく。(一)まず、五世紀に高句麗からモスへ=ムスヒが倭国に入ってきたときに、高句麗語と日本語の両方が分かる人が、その意味を考えて産巣日と翻訳した。高句麗語でモスが「生み出す」という意味だったようである。へは太陽の意味の日だから、産巣日と訳した。この中の巣という漢字には意味がなく、発音を伝えるのみのいわば添え字である。この五世紀の訳語は七一二年に古事記が編集されるまで、宮中で伝わっていたはずである。したがって古事記はこの訳語を用いた。(二)しかし、日本書紀を編集するとき、不比等は、日本書紀は国史であり、海外、特に中国に侮られないようにもっと含蓄のある漢字を使うべきであると考え、産巣日を産霊にしたのである。しかし、これは本来の意味を捨ててしまった表記になっている。産巣日という表記を中国語らしくないと思うのであれば産日程度に留めるべきであった。本当の意味を伝えるためには産霊という表記は使うべきではなかったのである。私は今、これを立法者の間違いと名付けようと思う。(三)こうして八世紀に立法者が間違ったのであるが、ずっと後になって本居宣長が日は霊であり比であるという解釈をしたのである。日=霊=比だと宣長は言っている。古事記伝の中で「古事記の産巣日の日は、書紀に産霊と書かれたる、霊字よく当たれり、すべて物の霊異なることを比といい・・・」。つまり、「(古事記の産巣日の)日は、書紀に産霊と書かれている霊という字がよくあてはまる。すべて物の霊異であることを比といい」と言っているのである。私は日が霊であり比でありという宣長の解釈は間違っていると思う。全く、非論理的である。前述のように立法者が既に間違っており、解釈者はそれを指摘して正すべきなのであるが、宣長はその立法者の間違いに悪乗りして、全ての解釈を自分勝手にできるキーワード、つまり「霊」というワードを手に入れるのである。霊という言葉をキーワードにして自由自在に自分の神学を展開することになるのである。驚くべきことにこんな勝手な間違った解釈に基づく本居の主張を評価する歴史学者や民俗学者が多数いるのである。物事を論理的に考えることをおそらく、宣長は漢心(からごころ)で「さかしら」であると言うのであろうが、そうした考え方はますます国際的な、科学的な時代を迎える日本人には有害無益である。(四)このようにまず立法者が間違い、解釈者が間違い、意味のない論争が現在も続いているのである。
以上のようにアマテラスの前の国家神はタカミムスヒであることは明らかであるが、この国家神の交代を企画して実行したのは藤原不比等であることも確実である。そして伊勢神宮の歴史や斎宮の歴史のところですでに指摘しているが、多くの攪乱記事は天皇制創設者であると同時に古事記と日本書紀の実質上の編集者である不比等によるものとみて間違いはないと思う。なぜなら不比等は自ら天皇制を作り上げており、伊勢神宮がどのようにしてできたか、知り尽くしているはずだからである。すべてを知っているのに、四世紀からアマテラスや伊勢神宮が存在したかのような記事を残しているところから見て不比等は人々を騙す強固な意志をもっていたことも確かである(時代の当事者であり、ほぼ三十五年に及ぶ最高権力であるにもかかわらず、史実を曖昧に、あるいは隠蔽したことを私は当事者説と名付けている)。私はこれからの古代史は古代人不比等の嘘をどれだけ見抜くことができるかというところにかかっていると思う。