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W. A. モーツアルト:バイオリン協奏曲 第3番 ト短調 K.216

作曲:ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト
独奏:イザベル・ファースト
演奏:イル・ジャルディーノ・アルモニコ
指揮:ジョヴァンニ・アントニーニ

第1楽章 Allegro:00:50 のみですが・・・

さて、19歳となった1775年、モーツァルトはザルツブルグ大司教ヒエロニュムスの宮廷にて、大司教を訪れる諸侯・賓客をもてなす「 楽師 」( 芸人 )を務めていました。

ザルツブルグ大司教は、当時のキリスト教世界の最高権威に近い地位にあり、聖界諸侯に遇され、「神聖ローマ帝国」に対しローマの教皇庁が派遣した由緒ある遣外使節でもありました。

その大司教の宮廷は、モーツアルト生誕年の1756年に勃発した「7年戦争」により、少しく疲弊し、プロイセン・オーストリア・フランス・ロシア・スペインなど列強各国の力により翳りを見せていたとはいえ、絢爛とした衣装を身に纏う諸侯・貴族たちを招いての外交の場でもありました。

賓客を招いてのパーティの席上、パリ・エリーゼ宮のポンパドール夫人のそれに負けず劣らぬ上質のもてなしを企画する上で、大司教にとって「天才モーツァルト」は欠かせない「芸人」であったのです。

ようやく19歳になった1775年、モーツァルトは一気に6曲ものバイオリン協奏曲を書かされます。

そして多分、賓客たちの前での弾き振りをも命ぜられたことでしょう。

ローマ教皇の権威を示す緋色の衣に身を包む大司教と、贅を尽くした衣装で着飾った、居並ぶ貴族や諸侯・社交界を彩る女性達の前で、モーツァルトは、パリやウィーンに負けぬ、気品に溢れた音楽を奏でることを求められたのは想像に難くありません。

キリスト教会の神の威光が世界の隅々に行き渡ることを示すため、神が遣わした天才による、諸人が息を呑む技巧と、典雅な旋律を披露するように求められたことでしょう。

しかし、大司教が与えた楽団は、せいぜい4~5人のヴァイオリン、チェロやベースは4人ほど、そして木管がたった4人程度しかいない小さなもの。

ヨーロッパの中心都市とはいえない当時のザルツブルグでは、素晴らしい演奏家が集まる訳もありません。
その楽団を引き連れ、弱冠19歳のモーツァルトは、彼自身の技巧と旋律だけで、大司教の面目を保たねばならない、哀しき「道具」に過ぎませんでした。

無論、聴く側の芸術的教養も、それほどに磨かれていないことは、容易に推測できます。

聴衆は、高名な天才が目前に立つことに満足し、その楽器から流れ出る、天の恵みを象徴する旋律に感嘆し、溢れでるアダージョに涙を浮かべ、演奏を締めくくる「高らかな繁栄と栄光」に、ご満悦であったと想像します。

同時にそれは、モーツアルトにとって、自分の音楽を解さない聴衆への疲弊感や、理解者の出現を待ち望むジリジリとした焦燥感、そのような宿命を与えた神への苛立ちに満ちた仕事であり、どこからか少しづつ湧き出てくる
悲劇の予感であったように思います。


いきなり、短い強音で始まる第3番の冒頭。

演奏を始めようとするのに、中々静かにしてくれない貴族達に業を煮やすモーツァルトが、わざと仕組んだ「仕掛け」のように感じられます。

無論、何事もなかったかのように穏やかに弾き振りを続ける彼も、心中は、決して穏やかではなかったことでありましょう。

ヴァイオリンは、時に高らかに、時に粛々と、自在にして美しい音色を操りながら、聴衆たちをもて遊ぶかのように「息を呑む技巧」を見せ付け、アダージョを謳いあげます。

が、あろうことか、堂々たる終幕を演じる前に、モーツアルトは演奏を止めてしまいます。
「フン、別にやめたって、飲んだくれの連中に判る訳もない」と謂わんばかりです。

どうでしょう? まるで、哀れな舞台劇が展開しているようではありませんか⁉

もう既にこの時、モーツアルトの心は、音楽の都ウィーンに飛んでいたのです。

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さて、この2年後の1777年、モーツァルトは大司教の楽師としての職を辞し、自らの居るべき場所を求めて、ミュンヘン・マンハイム・パリへ旅立つこととなります。

1781年にはついにヒエロニュムスと決別し、ウィーンでの自活生活に入っていきます。

1775年以降、バイオリン協奏曲が書かれることは遂にありませんでした。

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