スピン的哀しみのクラシック音楽史(8):ショスタコービッチ 交響曲 第15番
ドミトリー・ショスタコービッチ: 交響曲 第15番 イ長調
指揮:クルト・ザンデルリンク(KURT SANDERLING)
演奏:クリーヴランド管弦楽団
録音:1991年3月17-18日 演奏時間:50分40秒
この記事は スピン的驚きのクラシック音楽史(7):ブルックナー 交響曲 第9番 のつづきです。
20世紀を代表する旧ソ連の作曲家ドミトリ・ショスタコービッチ(1906年 - 1975年8月)。
その芸術は常に、芸術そのものの表現だけを追求することを許されず、
スターリン体制(共産主義専制)の中、政治や戦争といった「時代」と「イデオロギー」への同調と迎合を求められました。
「イデオロギー」という、今では馴染みのない言葉は、社会集団や社会的
立場(国家・階級・党派・性別など)において思想・行動や生活の仕方を
根底的に制約している観念・信条のことを言います。
例えば、共産主義国家における階級規定・倫理・行動の規範となる基本思想体系、と考えれば良い。
日本では間違いなく、昭和初期から太平洋戦争に突入した数年間、は「軍国主義」という基本思想によって、その他の思想を制約しました。
この時代、日本国民は「やりたいことを、命を落とすことなく実行できる
自由」というものを失いました。
政府が民衆の思考の自由を封じ、社会と民衆全体が個人の自由を圧殺した、と表現していいでしょう。「圧政」です。
諸外国で言う「圧政」とは、王朝や帝王が、あるいは眼に見えない「体制」というお化けのようなものが、個人の思考を縛り、行動を縛り、搾取し、
飢えさせ、生きる道を選ばせないことを言う、と考えればよいでしょう。
決死の覚悟でエジプト王朝からの脱出を実行したモーゼとユダヤの民。
ローマ帝国の横暴と戦ったスパルタカスと民衆。
バチカンの専制に反撃し「信仰」という自由を勝ち取った宗教革命。
大英帝国の搾取をはね返す戦いに結束したガンジーとインドの民衆。
世界の歴史は、圧政に抗い、搾取されることを拒み、飢えることのない社会を手にする戦い・・・「自由への闘争」の歴史でもあります。
ベルリンの壁が叩き壊されたことは、特に東欧の人々にとっては、マルクス・レーニン主義という「イデオロギー」からの開放を意味し、自由主義
社会の誕生を意味しました。
王朝もなく、帝王も不在の、歴史上初めての本物の「自由」な時代が訪れることを意味しました。
この「イデオロギー」と終生をかけて戦った作曲家、ショスタコービッチの音楽を、交響曲第1番から初めて、最後の作品第15番まで交響曲のみを聴き続けました。
国家と社会が唯一の政治体制への参加を強要し、その他の思想を持つ者を
狩り、それ以外の表現を糾弾し、常に生命が保証されない崖っぷちに生きる、危機と隣り合わせの時代と国家と人間の在り様。
これを我々は真に理解できるのだろうか、という危惧を胸に、黙々と聴き続けました。
スターリン体制・・・それは個人の価値など全く意味をなさない一種の極限状況でした。
この、想像を絶する、最悪な時代を生き抜いたショスタコービッチ。
彼は早くから音楽の才能を認められ、既に19歳にして、意欲的でレベルの高い交響曲第一番を作曲するなど、これからの世界の音楽界をリードすべき存在であるはずでした。
健康的な世界に生を与えられたなら、我々は20世紀の「モーツァルト」を見ていたことでしょう。
彼は、スターリン体制下に生きざるをえなかった。
だからこそ数々の名曲が生み出されたのでしょう、皮肉なことに・・・。
**** 交響曲第5番作品47「革命」
第3楽章の静かな静かなラルゴ。至上のピアニッシモを聴かせてくれるが、迫り来る恐怖を感じざるを得ない楽章。
続く第4楽章、すさまじい強要と専制の波が、はね返しようもなく、すさまじく爆発する。そして最後に至るまでの信じがたい緊迫と悲壮。
**** 交響曲第7番作品60「レニングラード」
紛れもない戦争交響曲。ナチスドイツがレニングラードを包囲している間、戦意を高揚させるために、まさにそのレニングラードの中で作った曲。
後日、作曲家自身が「ここで表現しているのはナチスではなく、スターリン体制のことだ」と発表したそう。
だが、果たしてそんな自由が彼に与えられたのだろうか・・・
**** 交響曲第10番
闇の中、高い塀の暗がりでサーチライトを避けながら逃げまわる人々。
時折響く小銃の音。地響きのように常に圧迫する魔王の息使い。
束の間の安息を楽しむ民衆の輪の外側に、かすかに、然し確実に迫り来る
軍靴の響き。
息をひそめて生きる人々の営み。どこにも逃げ場所のない絶望。
そして、ご案内する 「交響曲 第15番」
死期を悟った作曲家が、現世ではついに手にすることができなかった
「自由な想念」を、初めて死の床で愉しんでいるような音楽。
実に美しく、ことさらに哀しい音楽です。
好きだった地中海の暖かい音楽を懐かしく口ずさみ、幼年時代や家族を瞼に浮かべ、ここだけはもう誰も邪魔するものが居ない 「小さなベッド」で、
思い切り空想の翼を広げています。
無邪気な少年のような愉しさ・・・が、果たせなかった想いや悲しみに満ち満ちています。
そして、これまで どの作曲家も書かなかった、印象的なラスト・・・
ゲーテの最後の言葉「もっと、光を・・・」のような、かすかな「鈴の音」を
最後に、意識が消え・・・、この世から消え行くがごとく終ります。
それは、同時に、古き良き「交響曲」というジャンルが死んだ瞬間でもありました。
クルト・ザンデルリンクという共産圏出身の指揮者の演奏を選びました。
自由主義的「楽観」はどこにも感じられません。
厳しく、悲壮で、悲しみに満ちています。
西欧的ロマンも、美しさも、ありません。
現代に生きる「自分自身」を見つめ直さざるをえない程に、
胸に突き刺さる演奏。
多分、西側(自由)社会で生きた人にはとても真似のできない表現力なのだ
と思います。
ショスタコービッチが多くの人に愛好される理由はなんでしょう。
何故、この曲は胸に刺さるのでしょう?
それは多分、私達もショスタコービッチのおかれた「立場」に近い立場に
置かれているから。
我々は「自由」に生きてはいます。が、自らの表現が全て自由ではないことは身に染みて判っています。
誰もが社会に所属し、組織の論理に従い、自らを抑制し、葛藤することに
大差はないでしょう。
葛藤の中で、我々は癒しを求めます。
が、どのような癒しを得たとしても、現実を逃れることはできません。
我々も「生きる」という現実の中で、戦い続けることを余儀なくされていることに、違いはないと思うのです。
その意味で、我々も「ショスタコービッチ」なのだと・・・・
我々も、やはり「ゴドーを待っている」のだと。
この音楽史の最後に、
スピン的哀しみのクラシック音楽史(9):グスターヴ・ホルスト 組曲「惑星」を、ご紹介して終わりたいと思います。