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【歴史散策】ヨーロッパ音楽の源流を求めて (1):「シチリアーノ」の源流?

Siciliano by Bach, arranged for the piano by W.Kempff.
J.S. バッハ:フルート・ソナタ 変ホ長調 BWV.1031より「シチリアーノ」
ピアノ独奏:ベアトリス・ベリュ(Beatrice Berrut)

終日、クラシック音楽の中に居て、身体中のリズムがクラシック音楽に同期し始めたと感じた頃から、既に50年近くになりますが、私スピンには未だになかなか解答が見いだせない、大きな疑問がいくつかあります。

その中の一つ、
「キリスト教会、中世王侯貴族の宮殿にはクラシック音楽が存在した。
では、その外、民衆の中には、どんな音楽が流布していたのだろうか?」
という疑問にも、確とした仮説と説明を組み立てることができないのです。

最初にその疑問をはっきりと抱いた始まりは、この「シチリアーノ」という小曲に浸っていた頃でありました。

この曲はもともと「フルートとチェンバロのためのソナタ 変ホ長調 BWV 1031」の第2楽章に置かれたもので、その儚さと懐かしさと美しさからくる人気のためでしょうか、現在でもこの部分をのみ取り出して単独で演奏されます。

疑問は、ここから始まりました。
バッハという人は、その生涯の中、一度も外国に出かけたことがありません。なのに、どうして、陽光溢れるイタリアの空気と太陽と海の情景を思い浮かべ、懐かしさに溢れる、この曲を書くことができたのでしょう?

ある、穏やかな一日、天賦の才能にふと浮かんだメロディなのでしょうか?
それとも、ある日ふっと訪れた吟遊詩人の弾き語りの節回しにヒントを得て書き付けたものなのでしょうか?

バッハが慣れ親しんだ音楽世界は、いうまでもなく教会音楽であり、そこから派生する宮廷音楽でありました。
それらの源流は「グレゴリオ聖歌」であります。

ですが、どんなにグレゴリオ聖歌を聴きこんでみても「シチリアーノ」の
情感あふれるメロディは辿れません。
「シチリアーノ」は、まるで違う源流から流れ出してくる音楽なのです。

バッハの作品には他にも、同様の疑問を持たざるを得ない、言い換えれば「教会的な音楽」ではなく、「宮廷音楽の系譜」とは異なる、別の『源流』から流れ出てくる音楽があります。

例えば、カンタータ BWV 147(主よ、人の心の喜びよ)の中にそっと置かれた第10曲のメロディであり、例えば、ヴァイオリン協奏曲 第2番 ホ長調の、特にその第2楽章のメロディであり、いずれも、教会からも宮廷からも遠く離れた、庶民的な人肌の温もりを感じさせる、情感溢れる音楽です。

これらの曲の源流は、いったい何処にあるのだろう、という想いは、益々、大きくなっていきました。


そもそも、カソリック教会での祈りと典礼の音楽は、西暦590年から604年に在位した教皇グレゴリウス1世が編纂した「グレゴリオ聖歌」をその源流とし、750年頃以降にカロリング朝フランスにおいて、ローマ聖歌とガリア聖歌を統合、発展させたものと考えられています。

バッハが活躍したのは 1685年から1750年、18世紀前半です。
つまり、グレゴリオ聖歌の発祥から 約1000年以上の時間が存在するのです。

その間、グレゴリオ聖歌だけ?そんな訳はない・・・
では、一体「シチリアーノ」は何処から来たのでしょう。

そんな思いを巡らせていたある日、ふと耳にした「ケルトの音楽」から、
スピンは、一つの仮説を思いつきました。それが、以下です。

「青銅器時代(紀元前2500年頃)に中部ヨーロッパに独自の文化圏を持っていた民族、
イタリア北部のアルプスの中腹にて『ハルシュタット文明』を開化させていた民族、
古代ローマ人から「ガリア人」として恐れられ、シーザーの『ガリア戦記』に登場する勇猛果敢な民族、

ケルト。

そのケルトに流れていた音楽こそが、もう一つの源流として、ヨーロッパの民衆の中に流布していたのではないだろうか?」

というものでした。

バッハと同時期の他のバロック音楽家の作品の中にも、そう考えたほうが
説明がつくと思える(例えば、以下の曲のような)ものがあり、上の仮説を益々、実証してみたい思いに駆られていきました。

トマソ・アントニオ・ヴィターリ作曲:シャコンヌ ト短調
バイオリン: ジノ・フランチェスカッティ
伴奏:チューリッヒ室内管弦楽団

⇒ 【歴史散策】ヨーロッパ音楽の源流を求めて (2):アルハンブラ宮殿の奪回 へお進みください。


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