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スピン的哀しみのクラシック音楽史(2):メンデルスゾーン 交響曲第4番

指揮:ヤン・ヴィレム・デ・フリーント
演奏:オランダ交響楽団
録画:2016年9月4日 ロイヤルコンセルトヘボウ 大ホール Sundayコンサート

この記事は スピン的驚きのクラシック音楽史(1):真夏の夜の夢
の続きです。

フェリクス・メンデルスゾーンが如何に澄み切った心の持ち主だったかを、もう少し聴いてみましょう。
交響曲とバイオリン協奏曲がなじみやすいと思います。

交響曲第4番 イ長調「イタリア」 Op.90、MWV.N 17
(1833年、24歳の作品です)

1830年10月から翌1831年4月にかけて、メンデルスゾーンはイタリアに旅行し、この曲の着想を得て、作曲に取りかかったことが彼の手紙などから判っています。

イマジネーションに満ちた美しい曲。

特に冒頭の出だしは実に印象的で、いちど聴いたら忘れられません。

作家の浅田次郎さんが「死に逝くときは、この曲に包まれていきたい」と言ったというのは有名な話ですし、NHK・FMのクラシック・アワーの番組冒頭の音楽としても、懐かしいメロディです。

第1楽章から、実に伸びやかな音楽が展開します。
イタリアのまぶしい陽光に包まれ、見るもの聴くもの全てへの新鮮な感動が、見事に表現されています。

ただし、若者の物見遊山的な感情ではなく、きちんと古典的な構築物として書かれた名曲です。

メンデルスゾーンは、心の中に、美しい花園を持っていた、と思うのです。

素直で、華麗で、緻密で、よくデザインされた実に美しい花園でした。
薔薇の生垣の下には、きちんと背の低い草花が育てられていて・・・。
見るものの心を和ませる設計。

楽器とメロディが見事に世界の中に填め込まれ、全体を遠くから見て初めて全体の美しさが現れます。

ワーグナーが嘲笑したような、単なる「風景画」作家ではありません。

メンデルゾーンの一生は(多少の波風はあったとしても) ”華麗”でした。

1809年 ドイツのハンブルクで富裕な銀行家アブラハム・メンデルスゾーンの家に生まれ、カントにも影響を残した有名なユダヤ人哲学者を祖父に持ち、姉のファニーも有名なピアニストに育ち、妹のレベッカは数学者のペーター・グスタフ・ディリクレと結婚する、絵にかいたようなブルジョアの
一族でありました。

幼少の頃より、音楽や美術・文学・語学・哲学など、幅広い薫陶を受け、時の一級の人々に知遇を得ていました。

20歳の時の「マタイ受難曲」復活演奏の時など、ベートーヴェンが第9交響曲を献呈した 国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 や 哲学者ヘーゲル、
思想家フリードリヒ・シュライアマハー、詩人ハイネ等がいたそうです。

長じて後の経歴も華麗です。

1835年(26歳) ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者
1839年 シューマンが発見したシューベルトの「交響曲第8番」の自筆譜を
     すぐさまこれをライプツィヒで初演。
     (シューベルトの死から10年以上が経過していた)
1841年(32歳) プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に招かれ、
    ベルリンの宮廷礼拝堂楽長に就任。
1843年 自ら奔走して、ライプツィヒ音楽院を開校し、院長に就任。
1844年 ロンドン8回目の訪問の際、フィルハモーニック協会の演奏会を
    指揮。
     その後の訪問で、ヴィクトリア女王と夫のアルバート公に謁見。

まことに華麗です。

然し、既に時代は、モーツァルトやシューベルトを許した時代ではなくなっていました。ブラームスの音楽に込められたような、ロマンティークな旧き良き時代は遠くへ去り、「近代」という、荒々しい、思想・イデオロギーの時代に突入していたのです。

帝国主義・共産主義 ・・・ 大量虐殺の陰が確実に忍び寄る「近代選民思想」の時代へ移りつつありました。

邪気の無い、伸びやかで清らかな「魂」を持つメンデルスゾーンは、遅く生まれすぎたのです。


スピン的驚きのクラシック音楽史(3):メンデルスゾーン バイオリン協奏曲 ホ短調  へ 続きます。


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