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世代間倫理において純粋な利他行動はあり得るのか?

自分のためではなく他人のためにする行動を利他行動、他人のためではなく自分のためにする行動を利己行動といいます。また、利己主義という言葉がありますが、これには他人のことを顧みないで自分のことばかり考えるという、ネガティブな響きがありますね。誰しも自分のために行動したいのですが、他人のことを考えて行動する人のほうが信頼されるため、多くの人は程度の差こそあれ、利他行動をとっています。

逆に言えば、利他行動をする人は、巡り巡って自分のためになるということを分かって行動しているので、利他行動は結局のところ利己行動であると考えられています。それでも利他行動という言葉に、特別な響きがあることは確かです。
私が好きなGARNET CROWの「Holy Ground」という曲の中に、次のような歌詞があります。

~与え続けることでしか満たされない聖地へ辿り着こう~

これがどういう意味で歌われたのか、私には分かりませんが、初めて聞いた時この歌詞は純粋な利他行動に対する賛美であるという印象を受けました。

利他行動はほぼ、自己の利益につながる。だからこそ、利益を度外視した利他行動が難しいものであり、下心のない愛であるということが、美しい利他行動の概念を支えているのでしょう。

さて、このような利他行動は本当に存在するのか?存在するとして、自己満足以上の意味がある有益なものか?そのことを今回は考えてみたいと思います。

純度の高い利他行動の例として世代間倫理を考えてみる

地球温暖化等の文脈でよく言われることですが、我々は未来のことを考えずに自分たちの暮らしの豊かさを追求してきたため、未来の世代に残す環境が悪くなっています。我々だって、昔の人たちが好き勝手に環境を破壊してきたから今になって大きな問題に直面しているとも言えます。

同じ時代の人同士であれば、好き勝手しようとすると反対されるので、それが抑止力として働くわけですが、時代が異なる人同士は接点がないので、未来の世代のほうが弱い立場にいることになります。だから未来の人のことも考えようぜ、というのが世代間倫理です。

世代間倫理を実践に移すと、地球温暖化の文脈で言えば「温室効果ガス排出量取引の導入」みたいなことになるわけですが、どうして現代人は未来世代に配慮しようと思ったのでしょう?2つのポイントについて見てみます。

・ポイント1(実感としての視点)

[ 地球の平均気温の上昇がすごい勢いである。若い人が生きているうちにクリティカルな影響が考えられ、ましてや子供や孫にはもろに関係がある。]

・ポイント2(予定調和を予測する視点)

[ 未来の大惨事が予測されると、世界経済が混乱をきたす。]

順に見ていきましょう。ポイント1が意味するのは、未来世代への配慮と言っても10万年後の未来ではなく、想像が及ぶくらいの近い未来だということです。また、温暖化ガス排出規制のような制限が、現役世代にとって恐ろしい苦痛であれば、配慮はしないかもしれません。

ポイント2は、こういうことです。はるか未来のことであっても、破滅が確定的だと分かれば現代人の行動は変わります。ノストラダムスの大予言を信じ、人類滅亡の日を前にしてヤケクソになった人がいたように、まぁ真っ当な変化は期待できません。この場合、未来を気にして人々の考えがネガティブに変わることを現代人は恐れているわけです。そうなれば自分が困る。

いずれにしても現在実践されている世代間倫理は、かなり利己行動に近いものだと考えることができます。自分の子や孫のために必死になるのは、ほぼ利己行動ですからね。

というわけで、世代間倫理をもってしても、美しい利他行動に辿り着くことはできませんでしたが、ヒントは見つかりました。これも2つ、挙げておきましょう。

・ヒント1(利他行動の純度と世代間距離の関係性)

「考える未来をどんどん先に伸ばしていくと、利己行動の度合いは下がって利他行動の度合いが上がる。」

・ヒント2(純度の高い利他行動をする動機の補完)

「自分との関係性があると分かれば未来のことでも真剣に考える動機が生まれる」

まったく自分のためにならないほど純度の高い利他行動を、純粋な利他行動(=美しい利他行動)と呼ぶことにすると、ヒント1から、そのような利他行動は持続可能性の最大化を意味することになります。つまり、ヒトという生物種の存続に関わるようなカタストロフ(悲劇的局面)を、無限の彼方(遥か遠い未来)に追いやる行動です。

そしてヒント2から、どれくらい遠くまで追いやるべきかが分かります。孫の世代でカタストロフを迎えるのでは話になりませんから、かなり先の未来であるということは想像できます。しかし、自分との関係性が実感できないくらいの未来では行き過ぎだというわけです。数百年では寂しいという人が多いのではないでしょうか?私は2千年でも、2万年でも寂しいですけどね。実感は出来ませんが。

利他行動と利己行動、それぞれの価値

現段階で、純粋な利他行動は実効性を持たないものです。数万年先の未来世代に配慮するために、経済成長のスピードを落とせと言っても誰も聞いてくれません。しかしヒント2にあるように、自分と関係があると分かれば、より未来のことでも真剣に考える動機が生まれます。

例えば、寿命の問題です。現代人の寿命はせいぜい百年なので、数万年先の未来を自分ごととして考えることができません。しかし裏を返せば、1万年の寿命を持つ生命体はもっと未来まで配慮できるということになります。

もし人間が科学技術によって、ほぼ老化しない体を手に入れたら、(少なくとも世代間倫理の文脈では)人間はより道徳的になると言えるかもしれません。食べ物に困らない技術やベーシックインカムなどの社会制度も合わせて一般化したら、数十万年先の世代のために経済成長をコントロールする政策も、世論の支持を得ることができるかもしれないですね。

しかしそのような不老人間にとって配慮することのできる未来は、やはり利己主義の範疇にあります。現代人から見て遥か未来だというだけで、不老人間にとってそれは近い未来も同然だからです。現代人から見て価値があること(かなり純度の高い利他行動)が、不老人間にとっては無価値な利己行動になってしまう。そんなことがあるのでしょうか?

私はここで、利己行動の価値を低く見積もる傾向に焦点を当てたいと思います。言うまでもなく、世の中は利他行動だけで回るわけではありません。ある人間の、少なくともある部分については、当人しか知り得ないものです。体調が悪い時に我慢して他人のために働けば、誰かが気遣ってくれるというものではありません。

一方で、ある人間の、別のある部分については、当人以外から見ると簡単に把握できるものです。だからコーチという職業が成り立ちます。要するに、利己行動は主観的な把握に向き、利他行動は客観的な把握に向いているが、どちらか片方だけでは不足しているということです。

また、利他行動が結局のところ利己行動に帰着するということは、これら2つがイコールで結ばれるということであって、利己行動が利他行動に帰着することと区別できません。私は、自分の子供が「与え続けることでしか満たされない聖地」に行くよりも、子供が自分自身のことを考え続けた結果、純度の高い利他行動ができるようになることを望みます。だってそうじゃないと不幸になりますから。

たしかに、現代人にとっての利他行動は、不老人間にとっての利己行動に近いものかもしれない。しかしこのことは、利他行動の価値がなくなることを意味しません。それどころか、前述のように不老人間は現代人より(少なくとも行動の面では)道徳的なのですから、むしろ利己行動が道徳的実践に繋がること、他人のことを自分事として考えるために必要不可欠な要素であることを示しています。

未来と現代の関連性を発見することによって、自分事として考えられる範囲で最も遠いところにいる他人を配慮する。それができれば、利他行動と利己行動は世代間倫理を支える両輪となるでしょう。純粋な利他行動は美しいし、存在するかも知れませんが、それだけあっても今は何の役にも立たないのではないかと私は思います。

結論と補足

1.純粋な利他行動は現段階では実効性を持たない(遥か彼方にいるかもしれない未来世代のために現役世代は我慢せよという要請に対して世論の支持を得ることができない)。

2.ただし純度の高い利他行動には(持続可能性の担保という意味での)価値がある。またヒント2「自分との関係性があると分かれば未来のことでも真剣に考える動機が生まれる」から分かるように、今後、より未来の世代に対する世代間倫理が実効性を持つことになる可能性がある。

3.上記の可能性が現実のものとなり、遥か先の未来世代を配慮できるようになることは、近い未来に極めて低確率で起こりうるカタストロフを避ける技術につながる可能性がある(遥か先の未来までには、珍しい事象でも高い確率で起こるため)。別惑星への移住などはこの路線の技術と見ることができる。低確率のカタストロフでも種類が無数にあれば、我々は短期間で危機に瀕しうる。

4.自分の子や孫など、いわば拡張された自己に対しては純粋な利他行動があり得るが、これはほぼ利己行動に等しい。自分の遺伝子や記憶・考え方などを残すための行動だからである。

5.利他行動が利己行動に等しいと言われて嫌な感じがするのは、利己行動の価値を過小評価しているせいもある。利己行動から派生した利他行動は、純粋な利他行動が持ち得ない視点を含み、強いモチベーションを持つ。

6.本題ではないが、人間という生物は弱肉強食の社会を持たない(倫理的・福祉的な社会を持つ)ので、もはや自然淘汰によって生き残りを図る種ではなくなっている。持続可能性の担保は科学技術による他なく、その意味で利他行動と科学技術の利害関係が一致するのは望ましい。利他行動の純度を上げ、より未来までカタストロフを追いやるためには、科学技術の一層の進歩が必要なのであって、その副作用ばかり批判していても仕方がない。

7.本論では世代間倫理を考えたが、地理的な距離が離れた人に対する倫理も同様に考えることができる。生まれついた国による不平等を解消しようと思えばグローバル化を全面的に否定することはできない。そしてグローバル社会では外国人と自国人の相互影響性が高まるのであり、このことが距離の倫理における利他行動を要請する。つまりここでも、利他行動の理論は現実(科学の進歩や経済の拡大)に対して肯定的であり、一貫性をもって人類の動きを捉えることができる。

8.利他行動は幸福感も含めて多くの場合自己利益になるので、行動する前に、それがどう自分の利益につながるかを考えなくて良いとする戦略はあり得る。しかし利他行動をした後に、それが自分の満足に繋がったかを全く確認しない人というのはほぼいないように思われる。その意味でやはり利他行動は利己行動と関係があるが、他人から見て、自己利益を事前に計算せず利他行動をする人は、真に利他的に見えるだろう。

つまり利他行動が崇高に見えることの一端は、いちいち自己利益の計算を事前にすることに対して浅はかさを感じるからとも考えられる。利益になることがほぼ確実なのに計算するという、無駄な労力を省くことは美しい。ただやはり私としては、事後確認くらい行うべしと言いたい。特に利益にならなかったけど、たまにはいいや、くらいの心は肯定するが、誰にも評価されない密室で延々とボランティアをするような環境に自分の子供を送り出したくはない。

でもHoly Groundは好きですw

ではでは。

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すぴー
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