【保存版】僕の考え方。
※ここに、僕の考え方、思想を保存しておきます。
ふと、生きている目的は何か、と考えた。
生物学的観点から言うなら、おそらく、繁殖するためだ。遺伝子を残すこと、それが目的。
だが、僕はマイルドな反出生主義者であるため、遺伝子を残す計画はない。
僕は現在、生物学的に捉えると、意味不明な知的生命体である。なんだ、こいつ、と自分で思う。
日々、忙しくしている人たちは、そんなに難しく考えないかもしれない。
とりあえず、生きてしまっているので、できるだけ幸せに生きようとするのが、世の多数派ではないだろうか。
つまり、幸せになることが目的。
だけど、その考え、待ってほしい。堂々巡りになるけど、人間は繁殖するために生きているのだから、一個体が幸せになることなんて目的じゃない。
どんなに苦しもうが、遺伝子を残せていれば、それで成功。
太宰治は激しく苦しんだかもしれないが、子供をつくったので、生物学的に言うと、目的を果たしている。僕より勝ち組だ。
生存し、繁殖する。それだけ。個体が幸せかどうかなんて、自然淘汰のメカニズムの中では、どうでもいい。
その個体が精神的に満たされることは目的じゃない。
ちょっと進化論に寄り道するけど、
僕たちホモサピエンスが繁殖し、それ以外のホモ属をことごとく絶滅させて、地球を支配してしまったのは、僕たちがいちばん地球環境に適していたからだ。
僕たちは、繁殖するために適した機能を持っていたからこそ、ここまで繁殖してしまったのである。
ちょっと、考えてほしい。
もしも、四六時中、ずっと幸せを感じ続けるように突然変異した個体がいたとしよう。そいつは、増えるか?
たぶん、淘汰される。
もしかしたら、昔、そういうホモ属の種がいたかもしれないが、不安や恐怖を常に感じ続けるホモサピエンスより、生存確率は低かっただろう。
まとめると、ホモサピエンスに苦しみ、不安、恐怖、怒りといった不快なものがまとわりついているのは、それが繁殖や生存に有利に働いたからだ。
苦しみがあれば、仲間が気にしてくれる。不安があれば、十分に準備をする。恐怖があれば、危険を回避できる。怒りがあれば、戦闘能力が上がる。
幸せになるということが、これらの感情から解放されることであるなら、それは個体として劣化した、ということである。
いや、それは言い過ぎかもしれない。少なくとも、進化はしていない。
ところで、苦しみは、苦しいと感じる主体がいなければ機能しない。
その主体が、まさに、意識だ。
僕には意識があるから、苦しいと感じることができる。
意識があるからこそ、苦しみがあり、その苦しみから逃げようとする。
ちょっとカッコつけた言い方になるが、
幸せになろうとしているのは、この意識なのではないか?
意識が幸せを求める結果、負の感情を回避する行動をとることができ、生存確率が上がるのである。
僕たちは、大きな誤解をしていた可能性がある。
意識が肉体の支配者だと思いがちだが、実際には、ひとつの器官に過ぎない。
心臓が血を送ることを目的とするように、肺が酸素を取り込むことを目的とするように、意識は生存確率の高い行動をとることを目的にしている。
幸せになることが目的だと主張しているのは意識に過ぎないのであり、
それは、心臓が、俺は血を送ることが目的だ、と言っているのと同じである。
意識があるのは、進化論的に言えば、それが生存や繁殖に役立ったからであり、
そもそも苦しみを感じるためにこそ、意識は生まれてきたのである。
意識が幸せになることは、心臓が「やっと手を抜けるぜ」と鼓動を止めるのと同じことなのではないか。
そう考えると、過度に幸せになりたがる現代の荒んだ空気は「意識の暴走」とでも呼びたくなる。
そういうわけで、僕は、幸せを求めることはおかしいんじゃないか、と考えるようになった。ひとつの器官が暴走しているだけじゃないか。その、おこがましい器官が、勝手に、身体全体の支配者だと勘違いしているだけじゃないか。
僕の意識が消えても、僕の身体は動き続けるだろう。
ある程度、それらしく振る舞うこともできるだろう。
でも、その身体は幸せを求めようとはしないはずだ。その目的は意識にしかないのだから。
とは言っても、僕は、幸せを求めることを否定するわけではない。
ただ、それが生物としては無意味であること、もっと言えば、生物としての目的からするとサブストーリーに過ぎないということを、大事にしたい。
僕は、人生は無意味な暇つぶしである、と思っている。
べつに何も成し遂げなくてもいいのだ。死ぬまで適当に生きていればいいのだ。人生は、副業。