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蒸しパンの衝動

東京のレッスン期間中は1人でご飯を食べることが多い。
一人暮らしなので時間が普段よりも多く持てるからか、あるいは、夜になると話し相手がいないからか、考え事をしたり、物を書いたり試作をしたりする時間が自ずと増える。
ただでさえ多い独り言も更に増える。
まあ、わたしが考えている事なんて大概が馬鹿馬鹿しい事なのだけど。

ここのところは、エッセイの執筆、本の試作、対面レッスン、オンラインクラス用の蒸し料理の試作を黙々と行っていた(編集者注:このエッセイは10月末から11月初めにかけて執筆したものです)。
頑張った甲斐もあって、まだまだ添削は必要だけど良いレシピの枠組みが出来たと思っている。
同時にレッスンとは全く関係ない蒸しパンの試作も毎晩行っていた。

何故蒸しパンかって?

話は変わる。
10月の初めに高野山に木の子狩りに行った。
関西に住んでいるくせに、生まれて初めて行った高野山は思ったよりも遠くて、自宅から片道2時間半ぐらいかかった。
木の子狩りは楽しかったのだが、予定が思ったよりもタイトで何も高野山らしいことは出来なかった。
ここでいう「高野山らしいこと」というのは、参拝や山歩き云々のことではなく、高野山の寺院の周辺にある茶店で団子や饅頭を買い食いすることである。
いろいな意見があるだろうが、わたしの旅の楽しみとして、ココが重要なんよ。

寺院周辺にある茶店の軒先には、シュウシュウと蒸し器から湯気が上がっていて、蒸したてホカホカの饅頭はそれはそれは美味しそう。
外国人観光客たちがハフハフしながら頬張っている光景を車から沢山見た。

そんな光景を横目に見つつも時間がなくて、蒸しまんじゅうは、食べられなかった。
そう、わたしはこの日、どうしても、蒸気の上がった蒸し器から、
蒸し立ての饅頭を取り出して食べたかった。
そんな気持ちを引きずりながら電車を乗り継いで大阪まで帰ってきた。

そんな衝動からわたしは蒸しパンを作り始めた。
食べ物の恨みは怖いんよ。

パン屋さんを営んでいる、友人のしまぱんさんから色々と聞きながら、決して得意ではない小麦粉の扱いを色々と考察する。
粉の配合や発酵時間を変えながら試作を繰り返したのだが、これが結構楽しい。

毎日の蒸しパン作りに伴って味以外にも気づいたことがある。
中に餡を入れて蒸してもよいけど、具を色々と用意して蒸し立てを挟みながら食べても楽しいってことだ。
おかず的な物を挟んで食べても良いし、餡子やバターを準備して挟んでも良い。
漬け物や味噌、なんだったらキーマカレーを挟んでも美味しそう。
タコスや手巻き寿司みたいにきっと楽しめるんじゃ無かろうか。
妄想と想いは止まらない。

高野山で蒸し立ての饅頭を食べてしまっていたら、ここまで蒸しパンへの執着が生まれたのかであろうか。
そもそもとして、高野山の蒸し饅頭がさして美味しくなかった可能性もある。まあ、そんなことはどうでも良い。

わたし個人の意見であるが、料理に関しては、叶わなかったことの方が意外と心に残っていて、心残りの熱量や想いがあるうちに形にするのが良い。
食べて美味しかった名店のレシピを再現しよう、って気にならないのもこの辺が原因なのかも。

いつかやろうじゃなくて、何らかの熱があるうちに形にしたりぼんやりとした大枠を自分の中につくる。
日々忙しくて、刺激もそれなりに多くて、すぐに色んなことを忘れてしまうから、出来るだけ早く。
ものを作ること(わたしの場合はレシピを作ること、料理を作ること、文章を書くということ)に関しては、一呼吸置かずの衝動が大事なことだと思っている。
その衝動のきっかけがどんなに馬鹿馬鹿しいことであったとしても。

長々と語ったが近々、もう少しレシピの解像度を上げて蒸しパンレッスンをしてみようとおもっている。
わたしの蒸しパン熱がホカホカと冷めやらないうちに。

大好きなvaundyさんもこう言ってる。

衝動を超えたものづくりへ

https://www.instagram.com/p/C75LMBqSu15/

わたしの場合は蒸しパンだけど。