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幸せを受け取る器をそだてる
今日は一人でお風呂に入った。
いつもなら、だいたい次女か長女が一緒だし、平日だと寝るのが遅くならないように時間を気にしながらせかせか入っているので、落ち着いて湯船に浸かるのは久しぶり。
お湯の温かさと心地よさを、心から味わう。
幸せだな、と思う。
ふと、身近にある様々なものへ「ありがとう」と感謝を言いたくなった。
暖かいお風呂に入れることに、感謝
きれいなお湯に入れることに、感謝
暖かいごはんが食べれることに、感謝
ちょっと贅沢に恵方巻きをみんなで食べれたことに、感謝
みんなで揃って夕ご飯を食べれたことに、感謝
子ども達とテレビを見てたくさん笑えたことに、感謝
自分にとっての幸せとは何だろう?
これらのことが享受できることを幸せと感じている?
***
2年ちょっと前も、暖かくてきれいなお風呂に入れていたし、暖かいご飯を食べていたし、家族で揃ってごはんを食べていた。
そこだけ見れば何も変わらないはずなのに、当時、とても感謝の気持ちなど感じることができなかった。
夫が前職を辞めて以来1年半働かず、その理由も説明されず、主夫になるわけでもなく、それを私は許すことがどうしてもできず、家庭は崩壊寸前だった。
目の前に先に書いたような豊かさはあったかもしれない。
けれど、それを受け取る心の器は、ヒビが入り、割れかけていた。
私にとって家族との関係性は、暮らしの幸福度に多大なるインパクトを与えている。
逆に言えば、家族との関係性がよければ、いや、少なくとも波風立たず落ち着いていれば、それだけでほんの小さなことにも喜びと感謝を感じていられるのかもしれない。
***
お金持ちになりたい
権力をもちたい
人気者になりたい
痩せたい
病気を治したい
モテたい
よい人間関係をもちたい
運命の相手を見つけたい・・・
人々は様々な願望を持つけれど、その先に描く姿は「幸せな自分」という点で共通している。
人は幸せになりたくて、生きている。
でも、どの願望成就が自分を幸せにしてくれるかは、その人にしか分からない。
世間一般に描かれた幸せを追い求めて本当に幸せになれるかは、受け取るその人次第。
宝くじが当たった人の多くが、その後宝くじが当たる前より経済状況が悪くなる、というのは有名な話。
そうならなかった人は、そのお金をどう使うと自分や周りの人が幸せになれるかを分かっていた人なんだろうなぁと思う。
***
私はずっと「何者」かになりたいと思っている。
何者かになって、誰かの役に立って、社会貢献して、(できればそれでお金も稼いで)…
それを人生の目的地には設定しているけれど、それが手に入らないければ幸せでない、わけではない。
それを手に入れる日を楽しみにしながら、日々あーでもないこーでもないと試行錯誤しながら少しずつ成長したり、人と繋がっていく喜びを感じること自体が、この地球で体験したい幸せのかたちなんだと思う。
そして、その底辺には、家族をはじめ身近な人との良好な関係が必要不可欠で、そこへの水やりは忘れてはいけないんだと思う。
何者かになることを頑張りすぎなくていいのかもしれない。
幸せを受け取る器を、大きく丈夫に育てていけば、いい。
暖かいお湯に包まれて、ぼんやりそんなことを考えた夜だった。
最後までお読みいただきありがとうございました。