見出し画像

【コラム】浅田彰の『構造と力』から学ぶ、思考の構造転換

現代社会において、人間は目の前にあるものや、既知の事項にばかり意識を向けがちだ。「人間は知っていることしか知ろうとしない存在である」と喝破しているのは、フランス人哲学者のポンティやドイツ人哲学者のカントである。だが、その先にある「知らない世界」を認知しようとしなければ、知識は拡張されず、新たな視点は養われない。

では、未知の領域にどう踏み込むのか。それには「視点」の転換が必要不可欠だ。言語もまた、その象徴的な役割を果たしており、思考のフレームを形成するツールとなっているのだ。浅田彰の『構造と力』は、まさにこの「視点」と「行動」の変化を促す書物である。言語体系こそが、見事な構造を持つ秩序の象徴であり、交換可能な対象がなければその秩序は成り立たないという指摘は重要だ。

『構造と力』で扱われるクラインの壺は、その具体例として示唆に富む。自己を閉じた空間でありながら、その境界を超えて拡張される象徴なのだ。これは普段は目にしない「知らない世界」の一端を垣間見るための概念といえる。このような抽象的な思考は、現実世界の様々な局面に応用可能である。

その具体例として、本書では社会構造の進化を3つのレイヤーで説明している。

①無から有へ小さくまとめる〈コード化〉
②有を束ねる〈超コード化〉
③解体する〈脱コード化〉

これらのレイヤーを通じて、コミュニティは形成、発展、そして必要に応じて解体されていく。

しかし、解体段階にありながら実際には解体させずにある意味での脱コードを達成させた実例がある。それがパノプティコンという、中央に監視塔を備えたドーナツ型の囚人監視施設だ。

監視役はこの中央監視塔から周囲の牢獄を見渡すだけで監視できることからも、少ない労力で大勢の囚人をチェックできるというデザインだ。当然、獄中の囚人たちも中央監視塔を望めるのだが、囚人側から生身の監視人は見えないような仕組みとなっているのだ。

この仕組みが囚人たちの心に変化を与える。中央監視塔にいる監視役は囚人たちを見渡すことができ、囚人たちからは監視役を目視できない。それは、囚人たちからすると見ることができないので、実在していないことと同じである。しかし、中央監視塔が存在している以上、囚人たちは常に監視されているとどうしても思ってしまうのだ。究極、監視役は中央監視塔にいなくても、監視できてしまうのだ。まさしく『構造と力』である。

18世紀のイギリス人哲学者であるジェレミー・ベンサムが、効果的・効率的に囚人を監視できるものとしてデザインされたが、ベンサムはパノプティコンの使い方として、将来的な部分も織り込んでいた。それは、貧民層との代替だ。

ベンサムの囚人工場では貧民層が働いていた。労働を囚人にさせて貧民層との代替をも織り込んだものとしてのデザインなのだ。そしてこのパノプティコンというシステムはひとつのモデルとして確立し、一般化し、社会というフィールドへ浸透していったのだ。

日本の象徴ともいえる皇居はだいたい日本の中心部にある。だが、ベンサムがパノプティコンというモデルを確立する以前に、徳川家康は江戸城を建てている。象徴と機能を併せもつ存在を考えると、どうしても中央的な存在がないと気が済まないのが人間やコミュニティの本質なのかもしれない。


いいなと思ったら応援しよう!