【読書感想文】暇と退屈の倫理学(國分功一郎著)~序章~
きっかけは、暇。と検索したことから始まった。暇で暇で苦痛な時間があった。
そんな暇が、この本を引き寄せてくれたのかもしれない。
わたしのバイブルになっているのは、
いまのところ「嫌われる勇気」という本だ。
この本がすべて土台になっている。
だけど、それだけでは何か説明がつかな部分があると感じていたことも確かだ。
何かこのモヤモヤを晴らしてくれそうな気がしている。
序章 「好きなこと」とは何か?
ここでは、こんなことが最初に書かれている。
人類は、豊かさを求めて生きているが、
それが達成されると、不幸になってしまうと。
どうゆうことか?
豊かさを求め努力しそれが達成されると、やることがなくなり、不幸になると。
もう少し詳細に見てみると、こんな感じ。
豊かになると、➀金銭的余裕、②時間的余裕が生まれる。
時間的余裕=暇
この暇がキーポイントになる。
現代人は、過去に比べると暇を得たが・・・
➀暇の時間の使い方がわからず→退屈する→その退屈の苦痛から逃れるために、「与えられた楽しみ」に身を委ね、安心を得る。
②暇になると→生きている感覚が欠如する→何かに打ち込みたくなる。
③暇になると→「好きなこと」に時間を費やしていると思っているが、その好きなことですら、自分の腹の底からやりたいことではなく、「与えられたものである」ということ。(なのに自分がやりたいことをやっているかのように錯覚している)
つまり、暇の時間をうまく使えないと、耐えがたい苦痛につながるため、暇は搾取される、という。
一方で、「暇」になった時間を、「どう飾るか」が重要とも述べられている。
ここで、疑問。
え?この世の娯楽は、あくまでも「与えられたもの」であり、それでは事足りない。一方で、どう飾るかが重要って?どうゆうことだろう???
と、今現在、私の中では疑問でいっぱいだ。
下記※1に詳細を記載したが、
自分がやりたいと思っていることでさえ、
「カタログ化したもの」=「用意されているもの」から、選んでいるに過ぎないと・・・。
それでは、どうすればよいのだろう。
自分の、やりたいことってなんだろう・・・
余裕ができた時間を、どう埋めるのが良いのだろう・・・自分のやりたいと思っていることでさえ、そう思うようにしむけられているというのか・・・くっ、それは悔しい。
きっと、この本にそのヒントが隠されているのでしょう。
まだ、読み始めたばかりなので、今後どうなるかわかりませんが、また読み進められたら、更新します。
■イギリスの哲学者:バートランド・ラッセルさん[1872‐1970]
・1930年『幸福論』を出版。その中では、20世紀初頭のヨーロッパでは、すでに多くのことが成し遂げられた→これから若者が頑張る必要がない→若者にやることがない→だから不幸だ、と述べている。
■経済学者:ジョン・ガルブレイスさん[1908‐2006]※1
・1958年に著した『ゆたかな社会』にて、次のように指摘している。
・経済では、消費者の需要によって、供給が決められていると思われているが、逆だという。つまり、「供給」が「需要」を操作している、と。
この章の最後に。
「暇は、搾取される」
では、なぜ暇は搾取されるか?
理由は、「人は退屈することを嫌うから」
人は、豊かになったことで暇を得たが、
暇を何に使えばよいのかわからない。
そして、暇のなかで退屈する。
では、なぜ暇の中で退屈するのか。
暇のなかでいかに生きるか、退屈とどう向き合うべきか、このような問いに、この本は向き合っている。
退屈であると、生きている感覚が欠如する。
そうすると、人は「打ち込むこと」「没頭すること」を渇望する。
とのことでした。
少し疑問に思ったのは、
現代人も十分忙しいということ。
だけどきっと、ここでいう暇は
命に関わる時間以外のことを
指してるのだと思う。
昔、例えば旧石器時代は、
狩り、つまり食べることに
人生の時間の大半を費やしていたと思う。
しかし現代は、買い物すれば食べ物はゲットできる。
だから恐らくこうゆうことだと思う。
■昔(例 旧石器時代)
狩り=食事にかける時間 10時間として
■現代は、食事に、買い物の時間含めたとしても、そんな10時間もかからないだろう。
だから、旧石器時代の人に比べたら、
食事の時間を例にあげましたが、
生存に直結する時間で換算すると、
相当時間に余裕がある=暇
ということ、なのかなって思います。
私の感想なので、解釈が全然違ってたらごめんなさい。
あんまる