往生要集からみる地獄と救い
仏教ゼミ(ご命日のつどい) 6月28日(金)
源信僧都
浄土真宗の七高僧の中の源信僧都という僧侶を紹介する。
源信は平安時代の僧侶であり、著書に『往生要集』がある
これは現代も多くの人がイメージする”地獄”のありさまを記したものになっている。
源信は幼き頃から賢い子どもであり、比叡山で修行をした僧侶である。
その際に持って行ったのが源信の父が大切に持っていたという『阿弥陀経』である。
源信は頭がいいだけではなく修行もすばらしいものでみるみる成長し、『阿弥陀経』を翻訳した『称讃浄土経』を天皇の前で講義した。
そのことに激しく喜んだ源信は母にこのことを報告したらさぞ喜ぶだろうと天皇の前で講義したこと、沢山の褒美をもらったことを手紙で報告した。
しかし、母の反応は源信が思っていたものとはかけ離れていた。
「あなたを比叡山に送ったのはそのようなもので喜び、有頂天になるために送ったのではない、後の世を知り、後の世を渡す橋になれよと思っていた。なんと情けないものになってしまったものか」と
母に喝を入れられたのである。
そこから源信は深く反省し天皇からの褒美は焼き捨てて修行に打ち込んでいったという。
その修行の中で念仏についての教えをあきらかにしていった
往生要集
往生要集のなかにこのような一説がある
「本願ふかきがゆえに、頼まば必ず往生す」
これは仏様の教えをよりどころにすれば、必ず地獄の在り方を抜け出せるということである。
「頼む」という言葉だけをきくと、人任せにするというイメージが出てきてしまうかもしれないが、ここでは「よりどころにする」という意味であり、心にとどめたり仏の教えを常に忘れないことを意味している。
では”地獄”とは詳しくどのようなものなのか。
例として挙げると、無断駐車のようなものである。
ここの店には車が停められないから隣の店の駐車場に停めてしまえ。
これが”地獄”である。
そんなもので?と思ってしまう人も少なくないだろう。
しかし、この行動は他者の存在を一切考えない他者不在の世界に生きている考えでありそれこそが”地獄”である。
そのようなありさまを仏さまの教えをよりどころにしていれば、抜け出せると源信は教えていた。
往生要集にはこのような一説もある
「極重の悪人は、ただ仏を称すべし」
極重ときくととてつもない罪を犯したものに感じるがそうではない。
ここでは苦しんでいるもの、後がないもの、そしてどうしようもなく残念である源信自身のことを指している。
天皇に褒められて有頂天になってしまった経験が効いているのであろう
自らでは制御できない煩悩に振り回されてしまう弱きものにこそ
阿弥陀様の大悲のまなざしがそそがれていると教えている。
現代人もそうであろう。
あれが欲しい、なんで手に入らない、もっと欲しい、うまくいかないから腹が立つ、なんで思った通りにならないのか愚痴をこぼす、、これこそがまさに煩悩に振り回されているさまといえる
人間だれしも煩悩に悩まされる
しかし、仏さまの教えを聞くと煩悩に振り回されている自分がなんと愚かで小さいものかと感じる。
人間の正しいありさまを自分の失敗や修行から見つめて、生きていくことを源信は記していたのである。
まとめ・感想
このまとめを書いているリアルタイムで都知事選の結果が発表された。
結果や経過を見ながら五濁が進んでいることや人間が煩悩にまみれて正しいありかたを見失っているように見えた。
そのなかで源信の『往生要集』の少しでも知ることで自分はどれだけ愚かだったのか、ではどのように生きたらいいのかを仏教の目線から改めて考えられた。
とてつもなく残念な自分を見つめなおして仏さまの教えを深く理解しよりどころにしていきたい。
まなちゃる