
映画「この空の花 長岡花火物語」ロケ地探訪
スペラです。
毎年夏は母の実家がある新潟県長岡市に長期滞在しています。
そして以前の記事でも何度か書いている通り僕は大林宣彦監督の大ファンなのですが、大林監督の作品に「この空の花 長岡花火物語」があります。
というわけで、帰省前に「この空の花」全カットのロケ地を調査した結果、長岡駅周辺を中心に多くのロケ地を特定することができました。
連日報道された通り台風の影響もあり新潟県は記録的な猛暑に見舞われましたが、早朝や夕方を利用してロケ地探訪を敢行しました!
正直僕をフォローしてくださっている方には需要がないよな…とは思いましたが、「この空の花」のロケ地が気になった方がこの記事を見つけて参考にしていただければ幸いです。
映画「この空の花 長岡花火物語」とは
2012年4月7日に公開された大林宣彦監督の映画で、長岡市の実際の戦争や震災などの出来事を基にしたセミドキュメンタリー作品となっています。
さらに製作中に発生した東日本大震災も物語に大きく関わっており、2011年の大花火大会直前に発生した平成23年7月新潟・福島豪雨も必然的に物語に盛り込まれています。
新潟県中越地震の経験をもとに、いち早く東日本大震災の被災者を受け入れた長岡市。
熊本・天草の新聞記者である遠藤玲子はその地を取材するため、そして元恋人である片山健一から届いた手紙に引き寄せられ、長岡市に向かいます。
その手紙には、元木花という生徒が脚本を書いた「まだ戦争には間に合う」という舞台を上演するので観に来てほしいと書かれていました。
そして玲子は長岡の新聞記者である井上和歌子をはじめさまざまな人に出会い、数々の不思議な体験をしていきます。
スタッフ・キャストに関しては公式サイト(アーカイブ)をご覧ください。
大林宣彦監督とは
1938年生まれの自称「映画作家」。幼少期から自主映画製作を行い、1964年からはCMディレクターとしても活躍。1977年に「HOUSE」で商業映画デビューします。
自身の故郷・広島県尾道市を舞台にした「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」のいわゆる"尾道三部作"などが有名です。
撮影した映画は自ら編集を行うことが多く、一部の作品では音楽も自身で作曲。「ふたり」では久石譲さんとともに主題歌「草の想い」を歌唱しています。
晩年は肺がんで余命宣告を受けながら映画製作を続け、2020年に82歳で亡くなりました。
なお、長岡市で撮影された大林監督の作品は「この空の花」以外にもAKB48の楽曲「So long !」のMVがあり、MVとしては異例の64分の大長編となっています。
長岡市とは
新潟県のほぼ中央(中越地方)に位置する市で、人口はおよそ26万人。
江戸時代は長岡城の城下町として栄えましたが、長岡城は1868年に戊辰戦争で焼失しています。
この際救援物資として贈られた百俵の米を売却し国漢学校を設立したという米百俵の故事は非常に有名で、「この空の花」でも紹介されています。
1945年8月1日には長岡空襲により市の中心部が被災。現在確認されているだけで1488人が亡くなっています。現在も犠牲者が新たに確認されることがあり、実際にはさらに多くの方が亡くなっていると思われます。
その後も豪雪被害や新潟県中越地震など数々の困難に見舞われながら不死鳥のように復興を遂げてきたことから、フェニックスが市のシンボルとなっています。
長岡花火について
毎年8月2日・3日に行われる長岡まつり大花火大会。
長岡で本格的な花火大会が初めて開かれたのは1889年で、主に遊郭関係者が出資したといわれています。場所は現在とほぼ同じとのこと。
1926年には開いたときの直径が650mになる正三尺玉が、1927年には連発花火であるスターマインが登場するなど大規模な花火大会となりますが、1938年以降は戦争のため中止に。
長岡空襲を経て1946年に長岡市戦災復興祭(後の長岡まつり)が開催され、1947年には花火が復活。
1951年からは再び正三尺玉が打ち上げられるようになり、新潟県中越地震の翌年である2005年には復興祈願花火フェニックスの打ち上げが開始。現在では2日間で約100万人が訪れています。
それではロケ地を紹介していきます!
長生橋
「この空の花」に何度も登場する長岡市を象徴する橋。初代は1876年・2代目は1915年に完成し、現在は1937年に完成した3代目になります。
全長は850.8mで、国内でも珍しい下路式ゲルバー鋼ワーレントラス橋という構造になっています。
大花火大会ではナイアガラという仕掛け花火が取り付けられ、同時に打ち上げられる正三尺玉を彩っています。
「この空の花」でも元木リリ子の回想シーンとして描かれている通り、長岡空襲の際には多くの市民の避難に使われました。
なお、橋の塗装は完成当時が薄いオレンジ色と小豆色、1972年からはピンク色、1976年からはクリーム色、1992年からは現在と同じ薄緑色になっているとのこと。過去の色を再現した着色写真は2017年6月の市政だよりの表紙で見ることができます。
基本的に過去のシーンでも現在の色で登場する長生橋ですが、リリ子の回想シーンでは当時の色に合わせて旧越路橋で撮影されています。




水道公園
1927年から1993年まで使用された中島浄水場の敷地を整備し、2004年に開園した公園。
配水塔(水道タンク)・ポンプ室棟・監視室棟・予備発電機室棟が国の登録有形文化財となっています。
中でも水道タンクは長生橋と並び長岡市を象徴する建造物として市民に親しまれています。
「この空の花」では玲子と和歌子が出会うシーンなどで使われています。
玲子と和歌子の別れのシーンでは和歌子は水道公園・玲子は新潟日報長岡支社に近い長岡市民防災公園の脇の道路に立っていました。




柿川
長岡市南東部から信濃川へ繋がる川で、長岡空襲の際に多くの方が逃げ込み亡くなった場所でもあります。
「この空の花」でも描かれている通り、毎年8月1日には灯籠流しが行われています。
「この空の花」では平潟神社周辺や神明神社周辺など、特に多くの方が亡くなった場所が使われています。

長岡駅の東側にあり、水道公園からはかなり距離があります。



実際は平潟神社からは少々距離があり方向も違います。





右側に見えるのは神明神社で、ここでも空襲で150人以上が亡くなりました。



平潟神社
奈良時代の天平年間(729~749年)に創建されたといわれている歴史ある神社です。
長岡空襲では境内で268人が亡くなっており、隣接する平潟公園(かつては境内)に長岡市戦災殉難者慰霊塔が建てられています。
社殿は1979年に再建された鉄筋コンクリート造のもので、鳥居は中越地震で倒壊後に再建されたものです。



南町公園
18年前の東京という設定で登場しますが、実際は柿川のすぐ近くにあります。
遊具や周辺の建物からして長岡市内かな…と思い、市内の公園をGoogleマップで探してみたら見つかりました。
撮影したのは朝8時頃だったのですが、既に子供たちが集まっていました。
玲子と健一が座っていたベンチには物が置かれていたので撮影しませんでしたが、機会があればまた撮影しに行こうと思います。


平和の森公園
1996年に柿川沿いに造られた公園で、「この空の花」では舞台が上演されるメインロケ地となっています。
この公園にある平和像は長岡空襲で亡くなった児童の慰霊のために1951年に長岡駅前に設置され、その後市内各地を転々としていましたが、1996年に新しく完成したこの公園のシンボルとなりました。
ちなみに花が和歌子に上演の許可を取るシーンは、周辺の景色や建物の構造から推測したところ平和の森公園の近くのマンションの屋上で撮影されているようです。



今回撮影できたロケ地は以上です。
信濃川周辺や山古志地域などは撮影できていないので、第2弾以降も機会があればやってみようと思います。
事前調査から記事として完成させるまで、かなり壮大な自由研究でした。
まとめ始めてからも終わる気がしなかったのですが、無事8月中に投稿することができました。
「この空の花」のロケ地は長岡空襲で多くの方が亡くなった場所や、慰霊のために造られた場所がほとんどです。
この記事を読んでくださった方が「この空の花」を観て、可能であれば現地に行って、戦争や平和について考えていただけたら幸いです。
一九四五年八月一日 ここ長岡に投下された数千の爆弾は いたいけな二八〇余のいのちさえうばい去った
その霊をなぐさめる道は 一すじに平和をまもり戦争をなくすことだ