愛と惜別

「どんなに深く信じあっても分からないこともある。その孤独と寄り添い生きることが愛するということかもしれない。」
福山雅治の「家族になろうよ」の歌い出しだ。

分かり合えないという孤独を生きること。それが愛するということ。つまり、恋というのは分かり合えているという幻想に生きることで、愛というのは分かり合えないという現実に生きること。なのだろうか。

そういう意味で言うと僕はまだ愛を知らない。分かり合えない現実と立ち向かった段階で別れているからだ。そのフェーズまで辿り着いたことがない。

実際、全てを理解できる人間なんて存在しないだろう。どんなに言葉を重ねても分からないこともあるからだ。だが、言葉を如何に尽くしても伝えられない気持ちがある。その気持ちを大切にできない人は死んでいるも同然だ。僕は生まれてから今までずっと死んでいる。

僕は巡り会ってもいない愛と惜別することを決めた。分かり合えない現実よりも分かり合えている幻想に夢を抱いているのかもしれない。

いつか、分かり合えない現実を生きれるようになったらまたこの文章を読み返したい。「若かったな」と過去の自分を笑える日が来ることを祈っている。

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