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「オレのはなしをきけ」『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』

『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』
原題 Little Women
監督 グレタ・ガーウィグ

 我々世代は、世界名作劇場で知っている「若草物語」と、その後を描いた作品。(原作では、第四作くらいまであるらしい)
 ドラマティックな仕上がりのなかに、「ジョー」と言う主人公=シアーシャ・ローナン=ルイザ・メイ・オルコット=監督のグレタ・ガーウィグの姿が見える。
 時系列があちこち飛んじゃうので、少し追うのがつらい。ただ、「ああ、過去は暖色系で撮っているのね」と分からせている。
 わたしたちはつい、ジョーという人間に、自分を仮託してしまうと思う。こんなnoteを書いている、読んでいるものとしては。


 四姉妹は、作家志望でボーイッシュなジョー。夫と共に貧乏をしながらも、「美しいもの」へ手の伸ばしてしまうメグ、労りの心で友愛を老人と育むベス、そして処世術に富んだエイミー。
 エイミー役は雑監督アリ・アスターの「ミッドサマー」の主演、フローレンス・ビュー。この人、ちょっとガタイがいいというか、あまりヒロイックではない。かえってそこが「リアリスト」のエイミーとして、ぴったり。
 割と影が薄い、本人とはかけ離れた「結婚生活に夢を見て」「貧乏をする」メグに、エマ・ワトソン。エマ・ワトソンがとても綺麗なので「なぜ、こんな、グランチェスター牧師、違った、家庭教師と……」と、思考を巡らせてしまったのも、事実。貧乏が逼迫してこない。(旦那役は、BBC制作「戦争と平和」や、「グランチェスター 牧師探偵 シドニー・チェンバース」のジェームズ・ノートン。ぼけっとした佇まいがよい)ベスは、ジョーにとっての「喪失」のアイコンとして描かれるのみ。
 そしてジョーこと、シアーシャ・ローナンですが、綺麗は綺麗だけれど、どっかコケティッシュで、まあ、あの、「個性派」って言われるタイプですよね。
だからこそ、多分、ガーヴィグが、「レディバード」に続いて、主役にしたんでしょう。基本、ガーヴィグは「私の話を聞け」タイプ監督。自分の話がしたい監督です。

 繰り返すけれど、このジョーには、「女性のクリエイター」の悩みが詰まっている。そう、お金があれば、だいたいのことは片付く。私は彼女の生き様をみながら、メイおばさんになりてーなーって思っていた。「お金があったら独身でいられる」。そうですよねー。時々、TLを流れていく野原広子さんの漫画を目で追う、あの瞬間が心をよぎる。

 そして、ジョーは「作家は孤独でないと」とどこか陶酔している。そして、ローリーを振るのだ。

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 ただ、最終的にジョーは「作家は孤独であらねばならない」と言う枠を、飛び越す。そう、売れるために。
「ハピエン」として、夫を捕まえに行くのだ。幸せになりたいなら、自分から行動を起こさねばならない。それは男でも、女でも、同じだ。しかし、時に待つことも必要。(「パリピ孔明」みたいになってきた)

ぱりぴ

 ファンタジーとしての「彼を追い求めるジョー」が描かれるシーンは、ガーウィグの「これでええんやろ、はなほじ」みたいな作家性を感じた。ぐだぐだなんですもの。雑だったんだもの。

「結婚は経済よ」そう言い切って、処女作「Little Women」が製本されていくのを見つめるジョー。そして、ジョーは暖色系の画像のなかで、ケーキを作り、そして、学園を開き、姉妹とその夫(付属品)と、楽しいエンディングを迎える。
 しかし、待て。それは本当にジョーが掴んだ「ハピエン」なのか?
 経済としての結婚。ジョーはそういった。結婚は経済、かもしれない。忘れた。すまない。


 ジョーが最後に描いたオチは、うそっぱっちだったかもしれない。本を出すには「ハピエン」が必要。そして、オールドミスの本なんて、売れないのだ。……ああ! これって100年くらい前のはなしだよね!?
 ここでふと、朝ドラを喚起する。朝ドラの主人公はみんな結婚する。たしか、結婚しなかったのは「オードリー」の主役くらいじゃなかったか。しかし、「オードリー」は堺雅人や佐々木蔵之介は輩出したものの、視聴率はわるかったし、正直、面白くなかった。主役に魅力もなかった。すまない。
 まあ、朝に見るドラマでね、家族がいないってのも、独身ってのも、共感できんのやろし、最近だと、旦那、彼氏役がブレイクするパターンが最近、あるしね。
 ああ、つまらない。

 閑話休題。
 そう、結婚は「経済」なのである。結婚とは。「夫婦となること。特に、男女の間で夫婦関係を生じさせる法律行為」
 経済とは。「社会が生産活動を調整するシステム、あるいはその生産活動を指す」
 そう、「法律」と「社会」なのだよ。ワトソンくん。
 と、考えた時、「書くこと」に陶酔し、作家であることに矜持を持ち、「クリエイターは孤独でなければ」と、思い込んでいたジョーは「あかん、これやったら売れへん」「社会に認められへん」と、気が付いたのだよ。

「ΕΥΡΗΚΑ!」(ヘウレーカ!)

 彼女は作家として「売れるための戦略」としての「結婚」を選択した/描写したのだ。実際、結婚はしただろう。しかし、ラストの「ハピエン」は、あまりにもうそくさい暖色系のなかにある。

 そして、物語として「もさっとして、あまり魅力がなさげでも、同志になれそうな相手」を選ぶ。このあたり、どこか曖昧に描かれていて、かつ、ジョーが本当に夫を愛しているのか、伝わってこない。それが「結婚は経済」を体現していると、私は受け取った。
 そう、結婚ではマイナスにならない、プラスになる相手を選ぶとええんやで。愛とか、理想とか、そういうの、追っている場合やないで。結婚は博打やないんやで。
 これは幻聴ではない。カーヴィグの声なのだ。
 ジョーのシアーシャ・ローナンがガーウィグ本人だとしたら、恐らくガーウィグにとってのミューズである、ティモシー・シャラメが「私たちが見たいシャラメ」を演じている。そう、シャラメ=ローリーは愛に苦しみ、ジョーに熱烈に求婚して、恋に破れる。
 恐らくジョー=女性でありながら男性名、ローリー=男性でありながら女性名で、二人は、男女逆転の双子なのだ。だが、男と女は二律背反。魂は寄り添いあっても、実際の生活となると、恐らく、ジョーは「ローリーの財力と愛に溺れて作品を書かなくなる」と判断したのではないか。
 彼女の言う、「ぶつかり合い」ではなく。


 そして、ローリーはエイミーと結婚するのだが、ここからのローリーことシャラメの色あせぶりがすごい。存在感がどんどんとなくなり、ラストの「ハピエン」では、子どもを抱いているのだが、全然、パパっぽくない。むしろ、子どもがよその家の子ども抱いてるみたいな、リアリティのなさが凄くて「シャラメの限界」を思い知ったわけです。


 さらに言えばリアルなのが「人は追い詰められると、人をものとして、救済する道具として見る」。底辺にいたジョーはローリーに寄りを戻そう! と、うっかり告白しかける。ここでジョーがタイミングよく自分のやったことを拾い上げにいけたのは、本当に良かったぞ……。


 そもそも物書き、クリエイターがどん底に落ちる必要はないし、どこかで「どん底や、孤独でないといいものは書けない」というのは、嘘じゃね? っていうガーウィグの示唆も感じる。


 前作の「レディバード」は、ガーウィグの自伝的な内容で、色々と「痛い」はなしで、オチも「え? 結局、宗教かい?」(多分、そこに重点はないけれども)って、ツッコミかけたんだけど、恐らく、今作もガーウィグの「私がいま感じていること」そして、「ハピエンは金になる」「結婚は悪いもんじゃないが、生活の一端」ってことを、自分=シアーシャ・ローナン、そしてティモシー・シャラメに演じさせただけなんじゃないですかね。
 とにかく、「エイミーとくっつくまでの、きらきらと弾けるような生命力を放ち、恋に苦悩する、ローリー(ティモシー・シャラメ)」をご堪能あれ。


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