”仮面ライダーリバイ”の物語として──『仮面ライダーリバイス・バトルファミリア』時評
(noteで公開するにあたって補足しておくと、この文章は今年の8月に書かれたものである)
うだるような暑さにやられ、筆が動かないうちに鑑賞から二週間経とうとしている映画がある。毎年お馴染み仮面ライダーの夏映画『仮面ライダーリバイス バトルファミリア』である。
去年も、確かその前もなかったので今作は久々の「夏映画」ということになるのだけど、早々にぶっちゃけてしまえば、総合的にはこれはいつもの夏映画だったように思う。適切なスケールと適切な盛り上げ方。大きく外すことも、メガヒットを飛ばすこともない堅実な映画のありかたが、そこにはあった。
そもそも尺からして、仮面ライダーの夏映画はかなり厳しい条件を課せられている。戦隊と合わせても90分に満たない上映時間では、映画の、映画としての力を存分に発揮することは難しい。90分とは、あの『ドラえもん』の劇場版よりも短い時間だ。
それを差し引いて、バトルファミリアは良作だ。妊婦関連の描写でやや炎上していたものの(実際僕も無視できない違和感はおぼえた)、総合的に見れば良作である。だがそれだけでは感想は書けない。「良作でした」「エンターテイメントとして面白い」というだけでは、時評としてあまりに不誠実だし、言葉を費やす意味がない。その程度の感想であれば、SNSでちょいちょいと書いてそれで終わりにすればいい話である。
だがこの映画はそれだけではない。「無難な良作」という映画のフレームの間隙には、脚本を務めた木下半田氏の思い描くヒーロー性、ひいては『仮面ライダーリバイス』の根底に流れるテーマが、圧倒的な密度で差し込まれていたように、僕は感じたのだ。このブログでは、そのことについて書いていく。
今作で敵となるのはアズマ/仮面ライダーダイモンである。彼は数千年前にギフと契約した不老不死者であり、ギフの代行者として長いこと人類を監視・制御してきた存在なのだという。それだけ見れば赤石のコピーのようだが、忘れてはならないのは、彼が仮面ライダーであるということである。
赤石は仮面ライダーではなかった。彼はあくまでも「敵役」に割り振られた怪人であり、物語上倒すべき相手だった。
だがアズマは違う。彼は仮面ライダーだ。龍騎の頃から「仮面ライダー=正義」という図式は崩れつつあるし、今やライダーが幹部怪人と同列の扱いを受けることはそう珍しくないが、彼は信じるべき正義を背負ったキャラクターとして描かれる。
ギフのもたらす正義の帰結としての、人類の審判。超越生命がなぜ人間の善悪を考慮するのか、という疑問は一旦置いておくとして、こうした『リバイス』における正義のありかたは、信仰とよく似ている。ギフを偶像、ひいては神と見立て、その身体と目的とに奉仕すること。それが『リバイス』で長いこと敵となってきた信教者たちのイデオロギーであり、この作品における正義は「服従」と「叛逆」という、コインの裏表のような関係性の中に存在している。
ギフを受け入れるのか、突き放すのか。キャラクター数が増え、かつてのデッドマンズ幹部すらも仲間になっているテレビシリーズの作劇では見落としがちだが、これはこの作品において重要な要素だ。大二が長く、あまりにも長く悩んでいたこの問題は、『リバイス』とは切っても切れない関係にある。
アズマ/ダイモンと一輝/リバイは、そうした関係の両端に割り振られた仮面ライダーだ。そして同時に、彼らは前任者と後任者という関係でもある。
アズマが最も効果的な「敵」の抹殺によって人類を保全してきたように、一輝もまた、悪魔という敵を抹殺することによって人類を保全しようと務めてきた。アズマが山奥で廃人になっている間、人類の保全を行ってきたのは一輝である。テレビシリーズにおいて彼は下町で戦っていただけだったが、そもそもギフが降り立ったのは南米古代文明なので、物語としてのスケールが全世界的であることは随所で示されているといえる。
アズマはギフの意に沿い、人間を判定し続けた。彼の判定はギフ≒神に許された行いであり、その点において彼に迷いはない。躊躇することはできないし、しない。彼はそのためであればどこまでも冷徹になれる。
一方一輝はといえば、彼は常に悩み続ける。エゴイストと言われて悩み、悪魔と融合した人間が死ぬ可能性に悩む。しかし自分の記憶が消える可能性については悩まない。ここに五十嵐一輝という人間の、仮面ライダーリバイというヒーローの歪みがある。
五十嵐一輝は自己犠牲を信奉している。それをあらゆる物事に優先させることを、最も尊い行いだと信じて疑わない。その信念はもはや口に出されることさえない。エゴイスト問答やおせっかいがどうこう、というレベルでさえなく、この自己犠牲への欲求は彼に深く根ざしているのだ。
僕ら鑑賞者は、そうした態度に不信感を覚える。主人公に向けられた『リバイス』批評の多くの動機はたぶんそこにあった。僕らは自己犠牲を信奉できない。なぜなら、それはリアリティーを持たないからだ。自分を犠牲にすれば世界が良くなる、とは、信じられない人が大半だろうし、実際、その発想を現実にさせるだけの能力や、立場を持っている人間はそう多くない。
だが一輝は違う。彼は仮面ライダーだ。そしてそれが現れたのが、この『バトルファミリア』だった。
アズマと戦うことに執着する一輝は、エリア666の廃倉庫で彼と対峙する。そこで語られる言葉は、どれも鮮烈で新しい。それもそのはずだ、それらの言葉は、本編では登場しないのだ。
一輝のパーソナルな部分は、これまでテレビシリーズの中で幾度となく取り上げられてきた。だがそれは「迷い」の部分にスポットを当てることが大半で、彼の「確信」を取り扱った場面というのはほとんどなかった。だがこの映画でスポットが当たるのはその部分なのだ。 彼は明確に、自分がこれから先、アズマの後継者になることを自覚している。
彼の代わりに、自分が人類を守っていくことを確信している。決断している。そして彼は戦う。
だからバトルファミリアの最後の戦闘は「継承」としての意味を持つのだと僕は解釈している。人類に絶望し暴走したギフを信奉する不全の守り神、不全のヒーローとしての仮面ライダーダイモンに引導を渡し、自分が仮面ライダーリバイとして、この世界を、人類を守っていくのだ、と。そういった決断が、あの戦闘にはあったのだろう。
だがそういった仮面ライダーリバイの行く先が、悲劇であることを僕らは知っている。彼の記憶は今この瞬間にもどうしようもなく消えていっているのであり、しかもそのことを誰に打ち明けることもできない。孤独。アズマの背負ったその宿命さえも、一輝は継承する。そのうえ一輝の理想はアズマのそれよりも遙かに苛烈だ。とても一人で背負いきれる量ではない。そしてその理想は、大二やさくらの理想ではない。それが共有されることは、恐らくない。五十嵐家とは「帰る場所」であって、一緒に戦う戦闘者の共同体ではない。だから彼は一人で──仮面ライダーイガラシに頼ることなく──アズマと戦ったのだ。
だが、それでも、リバイにはバイスがいる。
五十嵐一輝は仮面ライダーリバイである以上に、仮面ライダーリバイスなのである。
この映画で一輝を規定するプロットは、「仮面ライダーリバイ」の物語の完結を志向している。だがこの映画はテーマのレイヤーにおいてもやはり、「仮面ライダーリバイス」なのだ。
たとえ行く先が悲劇でも、孤独でも、彼にはバイスがいる。バイスだけが彼を理解し、彼の欠落を埋める。彼は悲劇を喜劇にする。
そうして、仮面ライダーリバイスは戦っていく。
『リバイス』がどこに辿り着くのか、僕はまだ知らない。ひょっとしたら、それは悲劇にならないかもしれないし、予期した通りに悲劇として終わるのかもしれない。
だがリバイの傍らにバイスがいて、バイスの傍らにリバイがいることは確かだ。それこそが仮面ライダーリバイスなのだ。
『バトルファミリア』はどこまでも「仮面ライダーリバイス」についての物語だった。その点においてこの作品は傑作だ。単なる良作としてではなく、『リバイス』特有のヒーロー性の結晶として、この作品はいつまでも意味を持ち続けるだろう。
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