『クレイジー・Dの悪霊的失恋』一巻感想──『恥パ』からのジョジョ解釈の進化について
この項目ではわりと真面目な考察というか感想を、ネタバレに一切配慮せずにつらつらと書いていく。未読の方は注意されたし。
『悪霊的失恋』1巻は、全体として、一話に対して僕が感じていた印象を見事に覆してくれた。
僕は一話を最初に読んだとき、この作品が『恥パ』でやったような、ジョジョを上遠野作品の文脈で書いていく作品であるように感じた。
しかし、一巻を読んだ今、僕はそれが誤りであったように感じたのだ。
先述した「上遠野作品の文脈で書いていく」ものを「上遠野ジョジョ」と呼ぶなら、今度のこれは「ジョジョ上遠野」とも言うべき視点・論点の転換がある。僕はそのように思う。
前にnoteで書いたが、僕は『恥パ』は黄金の精神の代替としての「戦士」概念の獲得についての物語であると解釈している。これは『残酷号事件』のあとがきにもあったような「正義を確信できないなら能動的な偽善者であれ」というようなテーゼが顕れたれっきとした上遠野作品の文脈そのもの(先生が書いているのだから当たり前だが)が、黄金の精神との断絶感を抱えたまま放置されてしまったパンナコッタ・フーゴに投影された物語であると言える。
しかし一巻の展開・印象で言えば、今回の『悪霊的失恋』にはそのような「文脈」はなかった。ではなにがあるのか。僕はそれが、ジョジョ──それも5、6部──そのもののテーマ性であるように思う。
ジョジョ全体のテーマは「人間賛歌」である。どのように生き、何をなすか。それこそがジョジョの根本にあるテーマだ。だがジョジョはそれだけでできているわけではない。各部にはテーマがあり、それらは干渉しあったり、逆にこれまでのものを破壊したりするが、そんな小テーマの中でもとりわけ強力で、長く作品を規定し続けたテーマに「運命」がある。
その血の定め、というフレーズにもあるように、ジョジョは「血統」の物語である。そして「血統」は「運命」だ。
そのテーマが最も強く顕れていたのが五部である。五部のラストは、これまでに語られた物語以前の時系列に立ち返り、神のもたらす運命そのものを表すスタンド「ローリングストーンズ」と、その使い手である、神の子のメタファーとしてのスタンド使いスコリッピが登場し、これからの「展開」を示唆することによって幕を閉じる。
『悪霊的失恋』の登場人物と、スタンド「トト神」の関係は、まさしくこれである。
この作品の登場人物は、「トト神」の規定する運命から今のところ逃れられていない。そしてその事実は強調される。彼らが行動するとき、それはあらかじめ描かれた必然としてそこに立ち現れ、そして全てが終わったあとで、その事実が確認される。花京院涼子のビンタなどはまさしくそれであり、あのシーンにおける行動はすべてが制御されていない必然であった。
「運命」──<上遠野浩平論>の文脈に則れば、「神秘主義的な運命」が、ここにはある。そしてそれは「ジョジョ的な運命」でもあり、それゆえにこの作品は、上遠野作品である以上に「ジョジョ」であると言えるのではないか。
また先述した5、6部にみられるテーマの一つには「継承」というものがある、と、僕は解釈している。これは血統を超えた精神性の伝播であり、4部の登場人物や5部のナランチャ、6部のエンポリオなどがこれにあてられ、後天的に黄金の精神を獲得しているのだ、と。
『悪霊的失恋』には、このテーマも組み込まれている。
カイロから逃げ出そうとするホル・ホースは、天にエメラルドスプラッシュの輝きを見る。少々文学的な表現になるのを許してもらえれば、これは黄金の精神──「魂の輝き」であると言える。
物理的にも精神的にもやや距離はあるが、これは立派な黄金の精神の継承であり、これがさらに、ホルホースを介して仗助にも伝わる、ということになれば、この作品はジョジョそのものの性質を持ちながら、3部と4部を同時に補完することができるだろう。
最後になったが、僕はこの作品に非常に期待している。ジョジョファンとしても上遠野浩平のファンとしても、この一巻では最高の読書体験をさせてもらった。