「滅びとの和解、そしてスコップで切り取る世界について──『冬にそむく』(石川博品)時評」

(本稿には『冬にそむく』本編の鑑賞を前提とした表現が含まれています。ご了承ください)

 サブカルチャーには二種類の破局カタストロフの表現形式があると僕は考えている。一つは「衝撃インパクト」によるもの。『ヤマト』の遊星爆弾や『ガンダム』のコロニー落とし、『君の名は。』の隕石落下などがそれにあたる。そしてもう一つは「認識パーセプション」によるものだ。『天気の子』における「水没」の表現がこれに該当し、大音響と閃光による破局を敢えて回避することで、ひたひたと進行する「滅び」を描き出そうとしたそれは、映像作品における破局表現の、新たな地平を築いたように思う。
 それら二つを分かつものは「実体」のありかただ。前者はその過程と結果においてたしかな「実体」が顔を覗かせるのに対し、後者は必ずしもそうではない。そこに「実体」は希薄だ。そしてそれゆえに、認識は認識として成立し、そこに「存在」するようになる。
 だがこの小説に表れた「滅び」は、それらの表現への親和性を保ちつつも、どちらの陣営にも属さない。反復される「冬」は、閃光も大音響も伴わない静かな存在でありながら、たしかに衝撃インパクトとしてそこに存在している。そしてそうした、日常に張り付いた滅びとの和解が、この小説のメイン・テーマになる。
 この小説における滅びであるところの「冬」は、実体を持った存在として描かれる。認識パーセプションのみを問題とした滅びは身体性に拘泥しないが、この小説は絶えず身体性が確認され、そして「冬」はそれを浸食していく。この小説には定期的に体調不良のシーンが登場する。主人公は激しい頭痛に見舞われるし、ヒロインは風邪をひき、また肺炎で入院する。さらには、彼女は頻繁に咳をするのだ。作劇上の都合もあるのだろうが、ここで重要なのはそれがすべて「冬」によってもたらされているという点である。そして主人公たちは、雪かきスコップを用いることで「冬」に対抗することができる。
 対抗。それは認識パーセプションの領域には介在しえないものだ。認識は手で触れることがかなわないがゆえに絶対のものとして、打倒しえないものとして存在する。だが「冬」は違う。総体としてのそれは、少なくとも局所的には対抗が可能なものとして描かれているのだ。
 無論、地の文では「冬」の総体としての部分、抽象的な部分に焦点を当てて一般化する、という試みがなされているため、我々を取り巻く様々の問題をそこに代入することも可能である。しかしながら、その描写において、この小説が選び取ったのは「衝撃インパクト」としての、実体としての滅びだった。だがそれは、決してその最終到達点──破局カタストロフには結びつかない。この小説は最後に生を肯定する。「冬」は分かちがたく「冬」であり続け、滅びの予感は保留されたまま日常に張り付き続ける。この小説はそうした原理と和解し、それを肯定するのだ。これは間違いなく「生」の原理の表出であり、その肯定でもある。
 そうした肯定への道程として、この小説はリアリズムを用いる。

 この小説からは、燃えたぎるような、誇張された、いわゆるライトノベル的な性欲が排除されている。主人公は赤面しないし、ヒロインもまた赤面しない。過度なサービスカットは丹念に取り除かれ、またあったとしても、それは反復されず、強調されず、本筋においてさしたる意味を持たない。イラストも主要な展開を追うのみに留められ、少なくとも性欲という点において、扇情的なものは見受けられない。それを規定する原理とはなにか。僕はそれは、リアリズムであるように思う。
 男子高校生の草食化、などという言葉は、もはや死語ですらなくなってしまい、その言葉が存在したという事実そのものが埋没してしまったようにさえ感じる。だがそれは決して「消滅」を意味しない。むしろその逆である。それは高度に内面化され、浸透したのだ。
 多くの、成人を控えた、節度ある未成年男子にとって、性欲とは制御可能なものであり、それは外側に向くこともなければ内側で暴れることもない。無論例外もまた多いが、文学的なプラトニズムは十分に現実たり得る。まして、それがそれなりに社会性もあり、他人に慣れている「平均的な」男子高校生ならなおさらだ。そうした現実の写像を、この小説は表現として選び取ったのだ。その結果、この、過剰な性欲を抜きにしたライトノベル的な恋愛描写の挿入は、全体に独特の効果をもたらすことになる。
 こうしたリアリズムは他の部分にも見られる。日常の延長として付き合う男女。過度なセンチメンタルを排した描写。地に足のついた風景ロケーション。とかくこの小説は、激しく読者の感情を揺さぶることを拒む。現実がそうであるように。
 現実は非情である、と人は言う。多分、それは間違っていないのだろう。だが非情であることと、悲劇的であることとは別のものであるはずだ。この小説はそこを弁えることで、より強度のある、より実体に即した滅びを描き出すことに成功している。非情の静けさを描き出すことに。そのあっけなさを演出することに。
 だがそのうえで、この小説は非情さそのものの肯定を、矮小な人間を毀損することを許さない。登場人物たちは皆、非情に抗う術を身につけていくのだ。世界を変えるのでも、世界に屈従するのでもなく、ただ身体一つで抗うこと。自分がたしかに、世界の中に存在する事実を主張すること。その術を身につけていく。その象徴として、スコップは彼らの手に握られる。
 そうしてこの小説は非情に、しかし歴然と流れていく。それはどこか、吹雪にも似ている。

 滅びの中で生きること。滅びと和解すること。そのどちらも、僕にはとても困難なことであるように思う。それは衝撃インパクトでも認識パーセプションでも同じことだ。僕の手にスコップはない。まとうべき制服もない。坂を登った先の別荘もない。だが、それでも本棚には、リアリズムと行為によって生を肯定するこの小説がある。そのことを、僕は忘れないでいたい。
 そうした小説として、これはいつまでも存在し続ける。

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