窓の外のぼくら─黄金の精神と断絶からみる『恥知らずのパープルヘイズ』─
○まえがき
この文章は、上遠野浩平先生(以下、敬称略)の小説『恥知らずのパープルヘイズ』の解説文であり、考察文であり、そして感想文でもある。本文の内容に即した解釈を試みたものの、そこには個人的な感情や感覚、印象が多分に付随している。
またこの文章は『ジョジョの奇妙な冒険』、『恥知らずのパープルヘイズ』両作品のネタバレを多く含んでいる。それらのことを理解したうえでしばしお付き合いいただきたい。
○はじめに──「黄金の風」について
上遠野浩平著『恥知らずのパープルヘイズ』は、集英社から発行されている小説であり、週刊少年ジャンプで連載されていた『ジョジョの奇妙な冒険』の第5部「黄金の風」(※1)の外伝にあたる。
この「黄金の風」は、ジョジョの中でもひときわ重厚で、思想性が高く、そして異質な話だ。その異質さは、独立性の高いプロット部分からきている。
この部の主人公はジョルノ・ジョバァナー──ディオ・ブランドー、ジョナサン・ジョースター両氏の血をひく青年なのだが、少なくとも本編において、彼がその「血統としての連続性」を意識することはほとんどない。それどころか、これまでの部で登場した登場人物はほとんど登場せず、最も多く登場するのは第3部のジャン・ピエール・ポルナレフ──ジョースターの血統からは一定の距離がある人物である。
そしてテーマ自体もやはり、これまでの部とは一線を画す。「組織」への叛逆、運命との対峙、そして、「黄金の精神」──。第4部のラストで初めて登場した「黄金の精神」という語は、こと5部においては活用されたうえで何度も使われる。そもそも主人公のスタンド名からして「ゴールド・エクスペリエンス」なのだ。
この黄金の精神は本編における解説が少ないうえ、著者自らの言及もほぼないため解説が難しいのだが、本編の展開やセリフを総合するに「正しいと信じたことに迷いなく向かっていくことのできる精神」のことであるらしい。五部の主人公らはみなこの精神を持っており、そんな彼らのためらいのない、腹の据わった行動や台詞は相当にヒロイックであり、ジョジョ5部のエンターテイメントとしての魅力の大部分はそこにあるように思う。
※1:連載時の部タイトルは【黄金なる遺産】
○窓の外のぼくら
『恥知らずのパープルヘイズ』には三つのバリエーションがあり、それぞれに異なったあとがきが収録されている。そんなあとがきのうちの一つ、ジャンプJブックス版のあとがきに、上遠野浩平は興味深いことを書いている。
──(1部のディオの話をした後で)「“──が、自分は当然、人間をやめることも超越することもできずにその場でぽつん、と孤独に立ち読みを続けるだけであり、悪に立ち向かう勇気もなく、ただ圧倒されてぼーっとしているだけであった”」
ここで重要なのは、彼がぽつんと一人で立っているという点である。漫画に胸を鷲掴みにされるような陶酔感を感じても、尚、ここで彼は自分と『ジョジョ』の世界との断絶を感じているのだ。
少々文学的な表現を許してもらえれば、僕らは漫画を、紙を媒介として読んでいる。紙が僕らとフィクションの世界を接続している。しかし紙は接続のための装置であると同時に、僕らと漫画の世界を隔てる壁でもあるのだ。
そしてこの可視化された境界線は、「黄金の風」の中にも現れている。それも終盤中の終盤、ラストシーンにおいて。
ラストシーン。椅子に腰掛けているジョルノを、窓際から遠目に見つめるミスタと──部屋の中に吹き込んでくる風。味わい深いシーンだが、これは、漫画の世界と我々の世界との、絶対的で、冷酷でさえある断絶を表象したシーンであると言うこともできる。
ここで重要なのは「窓」と「視点」である。ジョルノやミスタのいる部屋と、「視点」が置かれている場所との間には「窓」がある。
つまりこのシーンは、ギャングスターとなったジョルノを、窓の外から見つめている、というシーンなのだ。
○フーゴ≒ぼくら
『恥知らずのパープルヘイズ』はフィクションと読者の対立以上に、「黄金の精神」と「それ以外」との断絶を描いた作品だ。黄金の精神を持てず、一歩を踏み出せなかったフーゴと、黄金の精神を持ち、進むべき正しい道に一歩を踏み出したジョルノたちの間には、深い断絶がある。それは、かつての仲間に銃を向けられる場面から始まる「Ⅰ」の残酷性に象徴されていた。
そしてこの断絶感は、上遠野浩平自身、そしてジョジョを読んでいる我々自身が感じていることでもある。
先ほど取り上げたあとがきの中に、こんな記述がある。
──「“美しいものの前ですくんでしまうように、正しいことの前でも人は足を進めることをためらう。絶対的に正しくて美しい真実に近寄るのは怖い。文句のつけようがない正しさというのは人を威圧する”」
圧倒的に正しいこと。これは先述した「黄金の精神」の定義に合致する。
個人的な感覚だが、この一節には妥当性があるように思う。僕らは、ずっと正しい道を、それも迷いなく選ぶことはできない。それは僕らが人生の中で経験し、観念として把握している事実だ。
そしてフーゴも、それを感じているのだ。そのことは、『恥パ』内で何度も反芻される。船に乗れなかったという事実は、彼にとって断絶の象徴となる。
その点において僕らは、フーゴと同じ存在だ。「黄金の精神」との間に齟齬があり、現実としての断絶を経験し、そして今も、過去と未来の間で宙づりになっている、不安定な実在──。
だが誰であろうと、ずっとその状態のままではいられない。現実は流れ、世界は動き、僕らはそれに対応することを迫られる。
そしてフーゴは、自分の立場を明確にし、組織への忠誠を示すために、麻薬チームと戦うことを要求される。
○解釈された「黄金の風」
先述したように、ジョルノたちが組織を裏切るシーンは『恥パ』において何度も反芻される。そしてこの場面は、基本的にオリジナルであるこの作品において、数少ない原作の引用シーンである。
しかし、だからといって、上遠野先生はただこのシーンを引用しているわけではない。それどころか、原作の多義的なこのシーンに、ある種の“解釈”を行ってさえいるように、僕には思われる。
他の部がそうであるように、5部においてもメイン・キャラクターは死の運命を免れない。その死は大抵無情で圧倒的なのだが、この5部の「死」は少々特殊なものである。それこそが上遠野先生の行った解釈の内容なのだが──5部の死には法則があるのだ。
その法則について説明するためには、まず、5部のブチャラティ・チームのメンバーが二種類に分けられることについて触れなければならない。
ブチャラティ・チームには二種類のキャラクターがいる。一つは、元より「黄金の精神」をもつ者。そしてもう一つは、他人への憧れによって「黄金の精神」を獲得した者である。
後者のキャラクターを僕は「追随者」と呼びたいが、この追随者にあたるのはブチャラティ・チームではアバッキオとナランチャ、そしてブチャラティであると、僕は考えている。
この分類の根拠となるのは、ボートへの乗船時──つまり、叛逆を決断する際の台詞である。その際、アバッキオはこう口にしていた。
──「オレももともとよォ~~~~行く所や居場所なんてどこにもなかった男だ…… (中略) オレの落ち着ける所は………ブチャラティ あんたといっしょの時だけだ」
そう、アバッキオの決断の基準・根拠となったのはブチャラティなのだ。つまり彼は、彼自身の精神にのみ従ったのではない。他人の──ブチャラティの精神への追随を志向したからこそ、あの船に乗ることができたのだ。
そしてナランチャだが、彼もやはり、トリッシュを動機として船へと乗り込んだ。彼の「黄金の精神」の輪郭を形成したのは、トリッシュへの共感だった。
ブチャラティについては後に触れるとして、これらの例と、ジョルノとミスタの行為は、やや異なったプロセスを辿り行われたものだ。
ジョルノはいつも口にしているように「正しいと信じる夢」のために行動したのだ。そして、それを形作ったのは彼自身の魂である。もちろん、そこには幼い頃に出会ったギャングの、その姿勢に対する憧れも含まれているのだろうが、それはあくまでも人格形成に寄与した一事象に過ぎず、いま・ここの決断とは直接的に接続しないものだ。その決断を可能にしたのは自然から生まれた彼の夢なのだ。それは最もスタンダードな「黄金の精神」の発露であり、ブチャラティの行動にも共鳴するものである。
そしてミスタだが、これもやはり自然から生まれた「黄金の精神」的な反応であると言うことができるだろう。彼もやはり、他のメンバーと同じように、叛逆することに対し葛藤するが、腹が据わった後はいつもの飄々とした態度で船へと乗り込む。そしてその時、彼が志向していたのはブチャラティへの追随ではなく、その先の未来のことだった。ボスが倒され、新生するであろうパッショーネでの、その立場──。この単純な欲求は彼自身の人生のテーゼであり、やはり自然から生まれたものなのだ。
話を戻し、ブチャラティについて触れるが、彼はトリッシュを助けた際の台詞からも、一見「黄金の精神」に従い、行動した非・追随者のように見える。
だが、『恥知らずのパープルヘイズ』においてはそうではない。上遠野浩平の解釈は、ブチャラティを追随者と定義する。
そのことを示しているのが「Ⅰ」におけるミスタの台詞である。
──「“ジョルノはオレに、二人の関係はあくまでも対等だったと言ってるが、オレの印象としては違う。ブチャラティはジョルノの、事実上の部下だった。なんというか、気持ちがそうだった。ジョルノの夢を叶えるためなら生命を捨てる覚悟があった──”」
また「Ⅷ」には、こんな記述がある。
──「“ブチャラティ自身は……その少年と出会うまで、その感覚を知らなかったのだ。
(中略)
誰かに憧れて、その人に未来を、夢を託したいという気持ちを」
僕はこの二種のキャラクターの間に、貴賤があるとは考えていない。このプロセスの違いは役割上のささいな差異でしかなく、どちらか一方が人格的に劣っているだとか、そのようなことは考えていない。
結果として、追随者たちは全員、その憧れを、精神を、未来へ託して戦いの中で死んでいった。そして生き残った者たちは、彼らを受け継ぎ、未来へ向かって歩き出していく。
しかし現在に宙づりになっているフーゴは、それをすることができない。黄金の精神を得ようにも、追随するべき相手は死んでしまっているか、あるいは頼ることのできない場所にいるかのいずれかに変容してしまっている。決断の根拠を、自分の中にしか求めることのできない状況に、フーゴは放り込まれてしまったのだ。
その中で、彼が何を選ぶのか。それこそが『恥知らずのパープルヘイズ』のメイン・テーマとなっている。
○黄金の風はまだ吹いているか
フーゴは黄金の精神を持つことができなかった。そしてこれからそれを獲得することも、不可能な状況に置かれている。そんな中で彼は、自分を、自分の精神を受け入れることで戦いに勝利する。制御不能だった精神のエネルギーを世界に接続することで、自分自身の救いを得たのである。
それは「一歩」ではない。そこに至るまでの下準備のようなものだ。しかしそれは、何かを決断する際には──圧倒的に正しいことに向かっていく際には、必ず必要になるものなのだろう。
「黄金の風」が、“暗闇の荒野に進むべき道を切り拓く”物語だったのだとすれば、『恥知らずのパープルヘイズ』はその道を歩むための精神を見つめ直し、再構成するための物語だったのだろう。それは黄金の精神に対しどこか断絶した気持ちを抱いてしまう僕らに対し、寄り添った物語ということでもある。「道」に対する「手法」。どちらが欠けていても、決断を行うことはできない。
『恥知らずのパープルヘイズ』を読み終えた今、僕らはあの窓の向こうに行くことができるようになった。もはやそこに断絶はない。
そうして僕らは本棚に背を向け、未来へと歩いて行く。その胸にただ一つ、黄金のような遺産を抱えて。