【時評】「世界の敵」の遍在と呪いについて──上遠野浩平『ブギーポップは呪われる』

・はじめに

 例によって、やっぱり『ブギーポップ』の時評は難しい。特に今作は語るところが多すぎ、一つにまとめようとすると論理が散逸してうまくいかなくなってしまうわけで……。

 そういうわけで、ここでは一つに焦点を絞って論を展開していきたいと思います。そのことによって抜け落ちてしまう文脈は致命的なほどに多いですが、大目に見てください……。

・本文

 当然のことながら、〈ブギーポップ〉シリーズとは、キャラクターとしての「ブギーポップ」を描くシリーズだ。だがブギーポップが登場するということは、世界に危機が迫っているということ、世界に敵対する存在が現れているということだ。そういう意味で、これは「世界の敵」の物語だともいえる。

 敵なるものの存在。それは常に無根拠なものとして演出される。「世界の敵」を規定するのはMPLSだが、それがいかなる理由によって現出するのかは今日に至るまで言及されていない。それは究極的に無根拠であり、作中で登場人物が言うように「善悪の区別のない」、ただそうある可能性として、そこに存在している。そういう意味で「世界の敵」とは、それ自身不条理を抱え込む存在であるといえるが、とはいえ、彼らはそれを背負い込みつつ、拡張し、生存することを志向している。世界の敵の本体・本質はMPLSではなく、それを含有する志向性、噛み砕いて言えば精神性にあるのだ。

 本作の「世界の敵」は臼杵未央。彼女はMPLS〈シャドゥプレイ〉で「呪い」を完成させることを目的としていたが──そこに「未来」はない。しかし彼女は最初から、未来を問題にはしていないのだ。

 これまで、ブギーポップには多種多様な「世界の敵」が登場した。彼らの多くに共通していたのは、「未来」を志向しながらも、それが決定的なものを見落とした、先のない空転にすぎない、というある種のニヒリズムであった。MPLSは未来でもなんでもなく、そこにある可能性はむしろ閉塞した、ごく限定的な「未来」への幻想に適応したつぎはぎの能力にすぎないのだ、と。

 だが彼女にそれはなかった。無論、その場その場の目的は存在する。『パニックキュート帝王学』のマロゥボーンのように、まったく状況に拘泥しない(その代わりに、ただ虚無的に、失われた過去の幻影をその場その場で取り繕い続ける)、というわけではない。だがそうした「目的」と彼女の志向性は奇妙に乖離している。「状況」と「世界」との間のこの致命的な隔たりは、彼女の向いている先が未来などではないということを暗示しているように見える。

 代わりに彼女が見ていたもの。それは「現在」だ。

 敵なんていない、と彼女は言う。それは人間自身が呪いを世界に押し付けた結果そこに立ち現れただけの幻影、亡霊にすぎないのだ、と。だが亡霊を、現実の質感を持つものとして捉え、これと対峙することのできる位置は「現在」しかない。対決は、闘争はどこまでもいま・ここ、分かちがたく存在する身体と、それに付随する精神(自意識)の置かれているいま・ここでしかありえない。

 遍在する呪いがもたらす敵。それとの終わりのない対峙。それはかつて『笑わない』を成立させていた、キャラクターとしてのブギーポップ、キャラクターとしての炎の魔女の営みでもある。
 この二人は現在に踏みとどまり、「敵」と対峙する。それは世界にとっての敵であったり、そのなりそこないであったりしたが、そこに共通していたのは、その主眼が護ることに置かれていた、という点だった。

 だが臼杵はそうではない。彼女は現在に踏みとどまりながらも、それを破壊し、まったく異なるものに変じようとしたのだ。

 彼女は、あくまでも水乃星には及ばない、ごく一般的な「世界の敵」として描かれていた。だがその表れ方は、水乃星と単純な上下関係にある、というよりはむしろ、まったく別の系統にある、と言えるものではなかったか。

 この種の「世界の敵」は他の上遠野作品にもしばしば見られた。「俗悪」であり、逆説的に特異だったフェイルセーフ(『ハートレス・レッド』)を除けば、『ロスト・メビウス』の辺りからだろうか。未来を志向しないがゆえにむしろ他の未来すべてを破壊する、という世界の敵が登場するようになったのは。

 無論、それは単純な移行、変化ではない。本作の主要な参照元の一つとおぼしき『デカダント・ブラック』には、『VSイマジネーター』の系譜を感じさせる、MPLSの「可能性」で、ある未来を現出させようとする敵が登場する。だがかつてに比べて、〈ブギーポップ〉に登場する「世界の敵」はどんどんと、未来を志向しない、どん詰まりの、暗黒のクレバスのような精神性・志向性を持つようになっていったことは事実であるように思う。

 そしてこの『呪われる』では、それを水乃星の死と重ね合わせる。「突破」という幻想。その実現可能性そのものが喪失した後の世界。ここではそれが自覚的に描き出される。これまでも水乃星の信奉者はたびたびシリーズに登場したが、彼女らはみな、水乃星の忘却に抗うものたち、つまりは、水乃星の喪失に囚われ続ける存在だった(『バビロン』のパラダイス・ラストや『ディジリジ』のミス・リジーとか)。だがここでは「忘却」そのものが描き出され、その価値が確認される。

 ギノルタも生成も、水乃星を信奉した過去を持ちながら、完全にそれを忘却してしまっているキャラクターだ。そして完全な忘却とは、すなわち忘却の事実すらも忘却しているということだ。そう、彼らは喪失を意識することなく行動する。このありかたは、どこか『ヴァルプ』後の世界と似ている。

 『ヴァルプ』の最終盤における「影響」とは志向性の喪失だった。単純な二極が崩れ去り、新世界が到来する。そしてこれと同じ構造がこの〈ブギーポップ〉にもあった。

 それは「未来」の喪失だ。

 水乃星の喪失は、未来の喪失でもあった。そして臼杵が示したものとは、そうした喪失の後に立ち現れる「敵」は、根本的なところで未来を志向していない、という可能性だったのではないか。

 未来の喪失した後に、それでも「敵」が現れ続けるということ。それは地表に吹き溜まり続ける「呪い」のようなものだ。そしてその「呪い」の実存は、喪失されたはずの水乃星へとバウンドする。

 未来を志向しない、そのままでは破滅してしまうものたちの「破滅」に形を与えること。あるいは「形が与えられねばならない」という規範意識を誘導すること。それは水乃星の──イマジネーターの可能性そのものだ。彼女は喪失し、未来を消し去ったからこそ、もはや顧みられることがないほど深いところで、その影響力を保持し続けているのではないか。『呪われる』の最終盤で示唆された可能性とはそのようなものだったと僕は考える。単なる『VSイマジネーター』の事件への布石ではなかったのだ、と。

 信奉の対象としての偶像ではなく、その不在によって影響を維持し続けるありかたは、やはり「呪い」だ。それと戦う術はあるのか。この作品の登場人物たちは──ブギーポップですらも──それを見つけ、提示してはいない。そう、それこそ、すべては「未来」に託されている。

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