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黄文雄先生のこと

 黄文雄先生が亡くなられた。正確には亡くなられたのは7月とのことで、2か月近く訃報は伏せられていたことになる。
先生の名を初めて知ったのは『歪められた朝鮮総督府』で、下北沢の古本屋でたまたま入手し、その驚愕の内容に引き込まれるように読みふけったものだ。僕が日韓の近現代史に興味をもつきっかけとなったの本といっても過言でない。日韓ワールドカップの前、日本にはまだまだ韓国批判がタブーの空気が支配していた時代である。同時期、小室直樹先生の『韓国の悲劇』も読んだが、あの小室直樹でさえ、筆致の随所に韓国への遠慮が見えた。一方、黄先生は膨大な文献、資料をもとに、韓国の”妄言”を一刀両断していくのは痛快だったし、大いに勉強になった。

 以後、黄文雄の名を表紙に見つけると買いあさり読み込んだ。『立ち直れない韓国』『中国の真実』『日本はなぜ中国人、韓国人と違うのか』『台湾は日本人がつくった』、そして大作『台湾・朝鮮・満州 日本の植民地の真実』。
 一時期は「月刊黄文雄」といわれるほど新刊を連発されていたときもある。むろん、それだけバリューがあるわけで、内容が重複する部分もあったが、それでも僕のごとき無学の徒にはそのつど目が開く思いであった。先生がいきおい多作になるのもわけがあったようで、台湾独立運動家への支援もそのひとつだろう。ご本人は年季の入った黒革靴を丁寧に掃いておられるほど質素な方に映った。

 これだけ高名な知識人でありながら、とても物腰のおだやかな、偉ぶらない人だった。講演などで壇上に上がると、演壇の両脇に手をついて「黄文雄でございます」とあいさつされる姿は、さながら秀吉に進言する知将竹中半兵衛(決して黒田官兵衛ではない)の趣があって、台湾の古武士ここに見たりの思いだった。

 黄先生のトレードマークはあの植物的なヘアースタイルと独特の上目遣いだろう。髪に関してはきつめパーマをかけることで、散髪は年に数度で済み、そのぶん執筆の時間に充てられるとのことだった。そういえば、睡眠時間は4時間あれば充分だともおっしゃっていた。上目遣いに関しては眼鏡の遠近度数の関係だろう。近くで人の顔を見るときはどうしてもレンズから目を離し上目遣いになるようだった。

 先生と初めてお会いしたのは講演会だった。たぶん、石平先生ともそのときが初対面だった思う。僕がまだオタク・サブカル系の雑誌に細々と雑文を書いていた時期だから、20年以上前になるかもしれない。講演後の親睦会なるものに参加したのもこのときが初めての経験である。おかげで両先生と親しく話す機会を得た。
 飲み会には、黄先生の教え子らしき学生が何人か参加していて、僕らのテーブルは自然と日本統治時代の台湾の話になった。教え子の女子が、「先生のご家族には日本名があったんですか」と聞くと、「うちはオカノ(岡野?)ともうします」と先生は笑って答えらた。オカノフミオさんか―。これは黄文雄ファンの間でも語られることのない知られざる真実ではないかと思う。
 僕はカバンの中に『歪められた朝鮮総督府』を持参していたが、古本屋の判が押してあるので、サインを頂くのを躊躇った記憶がある。

 その『歪められた朝鮮総督府』も何度も読み返しているうちに、カバーは破れ、折りもボロボロになってしまった。これを機に新品を買い直そうかと思う。サインを頂くことはもはや不可能になってしまったが。

 黄先生を主人公にしたマンガの原作を書いたことがある。そのせいか、先生はしばらく僕のことをマンガ家と思い込んでいらしたようで、顔を合わせるたびに「どう?マンガ描いている?」と聞かれてちょと閉口したものだ。
 マンガが掲載された「撃論」、どこかに閉まってあるはずだが、もし見つかったら、noteに再録いたしましょう。

 改めて黄文雄先生のご冥福をお祈りいたします。
 
(追記)
黄先生の書籍を読んで、もっとも衝撃を受けたのが、南京大虐殺に関する記述で、「日本の戦争文化に虐殺はない」(つまり南京大虐殺は虚構)という部分だった。一方、中国の歴史は虐殺の連続であるとして、豊富な資料をもとに語られていた。戦争のやり方に民族の文化の違いがあるという観点はまさに目から鱗で、これには多大な影響を受けたものである。

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