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三一運動は本当に平和的な行進だったのだろうか

1919年3月1日、ソウル・パゴタ公園を起点に全半島に広がったいわゆる三一万歳運動。韓国の歴史では、あくまで独立をもとめる平和的なデモだったが、日帝は不当な武力によってこれを弾圧した、とあるが本当か。
結果的にいえば、警察権力による武力が行使されたのは事実である。
しかし、三一運動が平和的な行進だったかというのも否としかいいようがない。より正確にいえば、最初は確かに平和的なデモであった。それが群集心理もあって、やがて暴徒と化し、略奪や放火(警察署、郵便局、内地人商店が標的にあった)が横行した。警察がこれを鎮圧したのである。

崔殷植の刑訴訟記録

上は三一暴動で検挙された「崔殷植ほか127名」の刑事訴訟記録である。
崔殷植(さい・いんしょく/チェ・ウンシク1899~1961)は、京畿道安城郡の出身。1919年3月1日、高宗の葬儀に参列するため京城を訪れたが、ここで三一運動に遭遇。故郷・安城にこれを持ち帰り、同地で万歳運動を主導した。4月1日午後8時ごろ、千人を集めて決起、日本人村長を吊るし上げ、「独立万歳」を叫ぶよう強要。警察署、郵便局、村事務所を次々に襲撃し、放火、破壊、略奪を繰り返した。
訴訟記録の罪状には、「保安法違反及び家宅侵入建造物及び器物毀損放火強盗電信法違反」とある。電信法違反は、おそらく電話線の切断だろう。日本でも過激派の内ゲバなどでよく行われた。まず外部との連絡を絶ち、そののちに襲撃するのである。やり方はなかり周到だ。

予審請求書。筆頭に崔殷植の名前が見える。
崔殷植。日本人金貸し業・須知隆宅を襲って金品を強奪したことが、韓国側の資料には英雄的に記録されている。

https://db.history.go.kr/item/compareViewer.do?levelId=hd_024_0010_0020

▲崔殷植の尋問調書。日本語とハングルで読める。「総督府政府に別段不満はない」と答えているのは興味深い。

崔は、1921年1月22日に懲役12年の判決を受けるが、1927年2月24日、京城復審裁判所で大正13年の賜物による措置で懲役9年1月3日に減刑された。出所後はソウルで静かに暮らしたという。

三一運動は内地にも大きな衝撃を与えた。
原敬内閣は、武力鎮圧を命じた長谷川好道総督を解任、穏健派の斎藤実を新総督として派遣。この斎藤の到着を待って、姜宇奎が南大門駅で爆弾テロ事件(斎藤総督は無事)を起こしたのは、別項でも触れたとおり。
これによって、武断統治から文化統治への大胆な転換が行われたのである。
また、原内閣は、三一運動のリーダーの一人、呂運享を内地に呼んで講演させた。独立派の言い分も聞こうじゃないかという柔軟な姿勢の表れである。

呂運享。日本敗戦時には、朝鮮人民共和国建国を宣言。過激分子を抑えて、半島内の邦人の無事帰国に協力。その意味では日本人にとっても恩人である。しかし、38度線以南のアメリカの軍政を許し、完全独立はならず。過激民族主義者に暗殺される。

また、三一運動によって、日本が朝鮮統治に自信を無くしたことを知った、アメリカの宣教師シドニー・ギューリックは、朝鮮総督府刑務局長(内地の警視総監に相当)である旧知の丸山鶴吉に、「日本は人道的な意味からも日韓併合を諦めてはいけない」と助言したという。賢者の目には、日韓併合は「人道的」に映っていたのだ。
ちなみにギューリックは、同志社大学、京都帝国大学でも教鞭を取ったこともある、大変な知日派で、日露戦争後、満洲の権益を巡って日米関係が悪化したことに憂慮し、民間交流の一環として、日本の学校などに人形を贈る、いわるゆる『青い目のお人形』運動を提唱した人である。

シドニー・ギューリック博士。「満洲が支那の領土であったことはない。逆に支那本土が満洲の支配下にあったではないか」と、中国の排日に異を唱え、日本の満洲権益に理解を示した。


丸山鶴吉。朝鮮総督府刑務局長時には、朝鮮人の地位向上に努め、現地人の信頼も篤かった。交流は戦後も続いたという。

三一運動以後、それに相当する大きぼなデモ、騒乱は半島内に起きていない。関東大震災の直後でも、である。私が、震災時の朝鮮人虐殺6000人という数字は虚偽であるとする理由のひとつだ(実数は当時の警察発表の231名+αが妥当と思われる)。もし、官憲が中心になってそのような大虐殺が本当にあったとしたら、半島でも内地でも三一を上回る大暴動が起っていたいたことだろう。
そもそも三一運動のきっかけは「高宗が日帝に毒殺された」という無責任な噂にあった。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」が流言飛語なら、「高宗が毒殺された」も流言飛語である。むろん、流言は導火線に過ぎず、それ以前のつもりつもった不満がマグマとなっていたのは事実だろう。それは内地人も同じだ。内鮮で度重なる朝鮮人無政府主義者のテロルは内地人の心に朝鮮人に対する暗鬼を生んだ。大正8年の渡航制限後も密航でやってくる朝鮮人労働者、彼らの後ろで糸を引く共産主義者の存在も不気味だったと思う。

「潮のやうに流れ込む鮮人の群」大正9年4月の大阪毎日新聞。正規の資格でやってきた朝鮮人労働者にとって、渡航制限後、密航し安い賃金で働く同胞は歓迎できぬ存在だった。この内地朝鮮人同士の対立も悲劇の要因だった。正規組は自警団の岡っ引きとして、不正規軍の摘発に力を貸したのだ。

興味深いのは、呂運享、崔麟、李光洙といった三一の主導者たちが、こぞって親日派に転向していることである。その理由としは、文治政治の定着と成功、三一暴動犯に対する裁判の公平性(死刑判決は一件もない)からくる法治への信頼などが挙げられよう。一方で、日本の統治をあくまで良しとしない過激分子は上海臨時政府に合流し、テロ闘争にシフトするのである。
三一運動は決して無駄であったのか。否だ。それは内鮮一体のための陣痛にほかならいと私は思う。

三一事件の翌年の靴屋の広告。事件の起点となったパゴタ公園前で営業。
「サアベルのおぢちゃんに子守は不適任か」。北澤楽天の風刺漫画。武断統治の限界を表現している。

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