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師うしおそうじから聞いた特攻隊の話

軍隊は“運”隊なんだ。最前線に送られる者もいれば、ボクのようにカメラの技術があるからというだけで内地勤務を命じられる者もいる。八日市市の陸軍第八航空教育隊に写真工手として入隊したんです。そこで三船敏郎と知り合うんだけどね。
 空襲で艦載機が飛んでくると、浜松に重爆の基地があったんだけど、それが退避してくるんだ。雪が積っていたりすると操縦ミスで脚が出ないときがある。そういう事故現場へ写真工手はいかされてね、師団司令部に事故の報告をするには、必ず写真を添付しなくてはいけないから。ひどいときは、火が機内に回っちゃってね、ジェラルミンでしょ、温度が上がると扉が開かなくなっちゃう。火の中でもがいているんだけど、どうしようもない。助けられない。それを写真に撮らなければいけないときのつらさといったらね…。

何度も特攻隊を見送りましたよ。末期のほうなんか、15歳ぐらいの少年非行塀が出撃するんだから。もうまともな飛行機なんかなくて赤とんぼ(九五式一型練習機。海軍は九三式)
に爆装して飛ばすんだ。そんなの、目標にいくまでにみんな撃ち落されちゃうわけよ。
出撃命令が出た晩はみんな酒を飲み交わしてね、できるだけごちそうを食べさせて。ボクなんかそういう席に呼ばれると、遺影を撮らされるわけですよ。写真と遺髪と爪を家族に送るの。三船さんもね、あの人は熊本の航空隊で終戦を迎えるんだけども、写真担当の兵隊はこれをやらされるわけ。三船さんもこの話をするとポロポロ泣いちゃうよ
黒い覆いかぶってカメラを覗くと、ピントグラスはさかさに映るでしょ、フィルムは白黒だけど、ピントグラスは自然色だから、ほっぺたなんてまだ赤いんだよ、少年飛行兵なんて。それでいて、なにもかも受け入れた平然とね、おそらく自分の運命を誰よりも知っているわけだから……。いざ出撃で飛行機に乗るとね、その少年兵の白いマフラーが風になびくわけだよ。当時の兵隊というのは、それなりのダンディ心があったから。せめて最期まで美しくあろうというね。

(追記)師はこの話をするとき、いつも涙ぐんでいた。僕はただそれを黙って聞いていただけだが、今だったら、もっと共感できたであろうと思うと、申し訳なさがつのる。

一峰大二先生、但馬、うしおそうじ先生


『うしおそうじ(鷺巣富雄)ピープロ全曲集』(監修は鷺巣詩郎氏)。但馬のインタビュー動画も収録されています。

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