手塚治虫も描いていた「第三国人」~日本の敗戦が生んだ餓狼の群
三国人のイメージ
2000年4月、時の石原慎太郎知事が陸上自衛隊練馬駐屯地で開催された記念式典で、「三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返しており、(自衛隊には)治安の維持も大きな目的の一つとして遂行していただきたい」と演説し、これが一部マスコミに取り上げられ大問題となった。いわゆる石原慎太郎三国人発言である。
この騒動での筆者の感想は「へえ、“三国人”って差別用語なんだ」という軽い驚きだった。子供のころ、親や担任を含めて周囲の大人は普通に「三国人」という言葉を使っていたからである。
僕にとっての「三国人」の原初的イメージは、テレビでときどき観る日活アクション映画に出てくる藤村有弘の「謎の三国人」、これにつきた。表向きはナイトクラブなどを経営しながら、店の奥の秘密の部屋で賭博場を開き、麻薬や拳銃の密輸にも手を染めている、本名はたいがいワン(王)で、語尾は「アルヨ」。ちなみに、「~アルヨ」「~コトネ」「~ヨロシ」を語尾に置く、昭和のフィクションに登場するステレオタイプな中国人が発するチャンポン語は、「協和語」と呼ばれるもので、もともとは旧満州で満人や漢人と日本人がコミュニケーションを取るために生み出された人工語だという。
藤村有弘の「謎の三国人」もけっこう怪しいムードを漂わせていたが、どちらかというと、1950年代のアメリカ探偵小説に登場するチャイナタウンの怪老のイメージを引きずっていたようだ。実際に「三国人」と呼ばれた人たちとの間には少しばかり差異があったようである。むろん、石原都知事のいう「三国人」もここで語るそれとはニャンスを異にする。
ザ・サード・ネーション
昭和20年8月の敗戦と同時に、それまで日本の統治下にあった朝鮮、台湾は光復(解放)を迎えることになる。当時、日本国内にも朝鮮人、台湾人が居住していたが、その一部は徒党を組み、略奪、強盗、強姦、などをほしいままにしていた。略奪した物資を自分たちが牛耳る闇市で、高値で売りさばき暴利を得る朝鮮人も多かった。また密造酒や密造ヒロポンも彼らの大きな収入源として知られていた。
「俺たちは戦勝国民だ。お前ら敗戦国の法律に従う義務はない」というのが彼らの論理だった。事実、強奪した旧軍の拳銃や機関銃、あるいは日本刀で武装した彼らに、敗戦間もない日本の警察力は無力に等しかった。チンピラヤクザがいくらアウト・ローを気取っても、犯罪を起こして捕まれば、法で裁かれる。その意味でいえば、彼らとてイン・ロー(in law)な存在に過ぎない。しかし、当時の朝鮮人だけは違った。文字通り、法の外に生きる無法者(out law)なのである。
GHQも当初、彼らの狼藉を大目に見ていた。それは西欧の植民地支配における間接統治を応用したものだろう。たとえば、英国はマレー半島を直接統治はせず、入植させたインド人や華僑に統治させた。被支配者であるマレー人の怨嗟が自分たち英国人に向かわず、インド人や華僑に向かうという狡猾なやり方である。朝鮮人を日本の間接統治の手ゴマに使ったと解釈していい。
しかし、朝鮮人が私設警察行為まで行いに及ぶにあたって、さすがのGHQも放置はできず、彼らを「戦勝国民でも敗戦国民でもない」第三国民(the third nationals)と呼び、占領軍と明確な区別をした。これが「第三国人」という言葉の始まりである。これでわかるとおり、「第三国人」はそもそも行政用語であって、本来この語自体に差別的、侮蔑的なニュアンスはない。それどころか、後述するように朝鮮人自身が堂々と三国人を名乗ることもあったのである。
映画で描かれる焼け跡闇市時代
その呼称自体が差別用語となると同時に、「三国人」を語ることさえタブーとする風潮が長く続いている。このまま行くと、戦後の焼け跡を餓狼の群れとなって逞しく生きた彼らの存在そのものが歴史から消し去られていくような気がして寂しい限りである。むしろ、そのほうがよほど差別ではないかと思う。
幸い昭和の映像作品には、彼らの生態を生々しく活写したものが少なくない。監督や役者の多くが焼け跡を知る世代だからリアリティが違う。ここからは、それらの作品の中からいくつかを取り上げて見てみたい。
あのカオスの時代、警察に代わって、傍若無人のふるまいをほしいままにする三国人からから体を張って庶民の盾となったのが、いわゆる任侠と呼ばれる人たちである。
有名なところを上げるなら、関東ではテキヤ60000人を束ねる関東尾津組の頭(かしら)・尾津喜之助、関西ではご存じ山口組三代目・田岡一雄だ。
『仁義の墓場』(1975年・東映)は実在したヤクザ・石川力夫(演・渡哲也)を主人公とした実録モノで、監督は同ジャンルの創始者ともいえる深作欣二。本作には、安藤昇が演じた根津喜三郎なる人物のモデルが尾津喜之助であるという。中野をシマにした三国人愚連隊組織・山東会は明らかに町井久之(鄭建永)率いる東声会を念頭に置いたものだろう。安藤は渋谷愚連隊時代、実際に東声会と抗争しており、右腕だった花形敬を東声会の放ったヒットマンに殺されている。そのことが、安藤組解散の遠因になったともいわれているのも何かの縁か。町井はあの「力道山の兄貴分だった人物でもある。
「日本はオマエラみたいな三国人に負けたんじゃない、涙を飲んで、アメリカさんに負けてやったんだ」
山城新伍のこのセリフは、当時の多くの日本人の心の叫びだったろう。
『三代目襲名』(1974年・東映)
《昭和二〇年八月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。人通りもすくない東山病院の裏手である。白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた。一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」
「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴が聞こえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」
私は少女をその場において一目散に走った。少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服の、三国人の男たちだった。彼らは不敵な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている。女は狂ったように絶叫していた。
「汚ねえ…」。うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった。》(『山口組三代目・田岡一雄自伝』)
この下りはそのまま映画の中で再現されている。前年の『山口組三代目』の実質的な続編(警察の干渉を恐れて、“山口組”をタイトルに入れられなかった)で、前作に続き若き日の田岡を演じるのは高倉健である。
「一部三国人たちの暴動は、天皇の玉音放送のあったわずか数時間ののち国鉄湊川駅の襲撃から始まった――」というナレーションから始まる本編は、当時の神戸の状況を忠実に再現していると思う。同じくナレーションでは「終戦当時、第三国人による組織は神戸の三国人聯盟をはじめとして、全国で300以上を数えた」とあり、彼らがかなり組織的に動いていたのがわかる。その構成員はみな「三国人聯盟」と書かれた腕章を腕に巻き、トラックの車体にも誇らしげに「三国人」と書かれている。どこが、差別用語なのだといいたい。
神戸の街の治安を守るために、田岡は自警団を組み、三国人聯盟と対峙する。映画を見れば、市民も警察も山口組を頼り切っているのがよくわかる。今でこそ、暴力団だ、反社だといわれる山口組だが、当時は良民に愛される正義のヒーローだったのだ。
『女王蜂と大学の竜』(1960年・新東宝)。東京の新橋を舞台に若き女親分(三原葉子)と三国人グループの抗争を描く。
おそらく実際にあった昭和21年の新橋事件がモデルであろう。新橋駅周辺の闇市を束ねる松田芳子率いる松田組と三国人グループの流血の衝突である。映画の中で三原葉子の女親分は、父である大親分(嵐菅寿郎)から跡目を引き継いだが、実在の松田芳子は、夫である松田義一がかつての舎弟に殺されたため、急遽襲名したものだった。これを松田組弱体化と見た三国人グループが襲撃をかけてきたのである。対する芳子は、関東中の任侠に助っ人を要請、その中には、前述の尾津喜之助もいた。
映画の方では、三原親分に助太刀をするのが、タイトルロールにもある特攻帰りの愚連隊・通称「大学の竜」(吉田輝夫)である。
トラックに乗って次々と襲ってくる三国人の描写はなかなか迫力があるが、作品自体はシリアス性ゼロのお色気アクションに仕上がっていた。
なお、松田組は事件の翌年解散。松田芳子も昭和31年、39歳の若さで病没している。
『男の顔は履歴書』(1966年・松竹)。
タイトルは、ジャーナリストの大宅壮一が本作の主演である安藤昇と初めてあったときの印象を語ったものをそのまま戴いている。
監督が東映任侠映画の加藤泰だし、キャストは安藤昇に菅原文太だし、これが松竹映画だということが信じられないほどに東映テイストに満ちたバイオレンス巨編である。
先に紹介した3本が任侠と三国人組織の戦いを描いた作品であるのに対し、本作は青空マーケット(要するに闇市)乗っ取りをたくらむ三国人愚連隊と市民の戦いが軸となっている。
安藤昇扮する雨宮は、沖縄戦に従軍した経験をもつ開業医。対する三国人グループ(九天同盟)の副リーダー格が、雨宮のかつての部下だった柴田上等兵(中谷一郎)で、彼の朝鮮名は崔文喜である。脚本の星川清司は、崔文喜という名前が気にいっているのか、『零戦黒雲一家』(1962・日活)にも同名の朝鮮人整備兵(郷鍈治)を登場させている。
三国人鉄砲玉役の菅原文太の狂気を宿した目の演技に注目。他にブレイク前の藤岡弘も出演している。
サニー・チバこと千葉真一が少林寺拳法の創始者・宗道臣を演じた、その名も『少林寺拳法』(1975年・東映)。こんな作品にも三国人が登場する。
千葉は同年、『けんか空手極真拳』シリーズで大山倍達も演じているが、宗道臣と大山倍達という実在した二人の武道のレジェンドを演じたのは彼ぐらいのものだろう。
中国大陸で特務機関の諜報員として働いていた宗は、敗戦で失意のまま帰国。故郷、大阪阿倍野へ向かう列車の中で彼が見たものは、車両を占拠し、わが物顔で狼藉の限りを働く三国人グループと、彼らになすすべもなくうなだれている日本人乗客たちだった。宗は得意の拳法で無法者どもを一蹴すると、「お前らそれでも日本人か。一度くらい戦争に負けたくらいで腑抜けになるな」と乗客にも喝を浴びせる。本作の三国人も「三国人聯盟」の腕章をつけていた。
他に、三国人の登場する映画では、『新・悪名』(1962年・大映)、『続・拝啓天皇陛下様』(1964年・松竹)が印象に残る。
梶原も手塚も「三国人」を描いていた
最後にマンガに登場する三国人を見てみよう。
まずは日本少林寺連盟監修/桜井はじめ劇画の『宗道臣物語』である。宗道臣といえば、やはりこのシーンというべきなのか、千葉真一の映画と同じく、列車内での不良三国人との遭遇が描かれている。よく見ると「第三国人聯盟」の腕章も。
同様の描写は中沢啓治の『はだしのゲン』にも登場する。三国人といえば、列車の占領というのは、当時を知る人たちの共通のイメージのようである。筆者の祖母も、買い出し列車を私設検問して回る「怖い三国人」の話をよくしていた。米など見つかれば、有無を言わさず没収され、逆らえば、女子供でも容赦なく鉄拳が飛んだという。そして奪った米は、翌日には法外な値段で闇市に並ぶのだ。
作中、その闇市で羽振りをきかせていたのが、主人公ゲンとは昔なじみの朴さんという朝鮮人である。朴さんはパリっとした背広にレイバン風のサングラスをかけ口ひげを蓄えた、いかにも三国人社会の顔役然としたキャラクターで物語の後半に再登場する。「毎日いなかにいってヤミ米をしいれてはヤミ市で高く売ったのよ」「警察におわれたりして苦労したが金もうけのためならと命をはってがんばったよ」「わしら朝鮮人がこの日本で信用できてたよれるのは金だけだからな」という作中の朴さんのセリフは、ある意味、当時の朝鮮人の置かれた境遇を表してはいるが、ひとつツッコミを入れるなら「警察におわれたり」の部分だろう。何度もいうが、三国人の前に警察は無力だったのである。警官が三国人にリンチを受けることも珍しくなかったのだ。
マンガにおける三国人といえば、やはりこの作品に触れないわけにはいかない。梶原一騎&矢口高雄の『おとこ道』である。同作は、梶原一騎が尾崎士郎『人生劇場』の劇画版を目指し、主人公の少年に侠客や理想主義者の教師などを絡めた大河ドラマとして構想された。
しかし、その壮大な構想を描き始まった本作も連載そうそう躓いてしまうのである。侠客のこのセリフが、韓国・朝鮮人差別だと糾弾を受けたのだ。
「最大の敵は、日本の敗戦によりわが世の春とばかり、ハイエナのごとき猛威をふるいはじめた、いわゆる第三国人であった!!」「「殺られる前に殺るんだ、三国人どもを!!」
梶原一騎によると、最初にこれに火をつけたのは朝日新聞だという。ちなみに『おとこ道』の連載開始は1970年。筆者の知る限り、「三国人」が差別用語視された、これが最初のケースではないか。
「抗議団は編集部についで拙宅をも訪れたが、私がさる著名な韓国の人と永年にわたり兄弟同様の交わりをしているのを知り、かなり納得して帰ってくれた」(梶原一騎『劇画一代』)。
この「著名な韓国の人」が大山倍達であるのはいうまでもないだろう。
なお、その大山倍達の“三国人”時代については、小島一志・塚本佳子著『大山倍達正伝』(新潮社)に詳しい。在日というものを知るには、またとない名著である。筆者も同書には多くの示唆を得た。
現在、『おとこ道』は改訂本が発刊され購読が可能だが、セリフ中の「三国人」はすべて「K国人」に書き換えられている。こっちのほうがヤバくないか?
意外なようだが、あの手塚治虫も三国人を描いている。1979~80年に『週刊ヤングジャンプ』に連載していた自伝的要素の強い作品『どついたれ』がそれだ。焼け跡時代の大阪を舞台に、主人公の戦災孤児・哲、狂言回しとして高塚修という作者の分身らしきキャラクター、それに侠客(やはり)、朝鮮人愚連隊などが絡む、これもまた手塚版の『人生劇場』といえた。タイトルが示すとおり、手塚作品が世に残した作品群の中でももっともバイオレンス要素の高い異色作となっている。
主人公・哲は両親を殺したアメリカに恨みをもっており、マッカーサー暗殺を企てるし、
「ここはこれからタップリ血だまりができるんだ。三国人との決戦でェ!」「三国人とのでいり」といったセリフがひんぱんに出てくる。
従来の手塚マンガのテイストとあまりにもかけ離れた作風だったためか、人気が出ず打ち切り、お話も未完のままである。もしかしたら、晩年に差し掛かった手塚治虫が、本当に描きたかった作品だったかもしれない。そう思うと残念である。
初出・「昭和39年の俺たち」2024年9月号
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