目からビーム!11 小原國芳と屋良朝苗
玉川学園園長・小原國芳と沖縄との関わりについては、金城哲夫の評伝『ウルトラマン昇天』(山田輝子/朝日新聞)にくわしい。著者の山田は玉川学園高等部で金城哲夫の一学年先輩にあたる人である。本項も同書に多くを依拠していることを最初にお断りしておく。
小原は明治20年鹿児島川辺郡に生まれている。いうまでもなく歴史的に薩摩と琉球はあさからぬ関係にある。小原の生家の庭先からは入江に出入りする琉球船が見えたという。
その小原と沖縄をさらに結びつけたのは講演活動だった。教育者としての小原は、精力的な講演活動でも知られており、戦前は内地にとどまらず、朝鮮、台湾、満州にまで足を延ばし、自らの教育論を熱く説いた。小原が沖縄教職員会の招きで軍政下の沖縄を訪れたのは昭和27年6月のこと。彼を出迎えたのは、のちに沖縄祖国復帰運動の象徴的存在、そして精神的支柱となる屋良朝苗、かれの右腕でもあった喜屋武真栄以下、教職会の幹部たちだった。筆者はくしくも先日、仲村覚氏が主宰する日本沖縄政策研究フォーラムの講演会で、昭和28年2月の衆議院文部委員会で祖国復帰を訴える屋良朝苗の演説の全文に触れ、深い感銘を覚えたばかりである。紙面の都合上、ここに紹介できないのが残念でならない。
小原國芳と屋良朝苗、この二人の偉大な教育者は広島高等師範学校時代の先輩後輩(小原が一年年長)で旧知の仲だったという。二人が沖縄の地でどんなことを語り合ったか、もし記録が残っているのなら、ぜひ拝読したいという思いにかられる。
小原は、講演の傍ら、沖縄各地の学校を見て回り、草ぶきの馬小屋の校舎、図書室はおろか教科書やノートも満足にない、その教育現場の惨憺たる現状に心を痛めた。帰郷した小原はさっそく、玉川学園刊の百科事典や図書を沖縄各地の学校に贈り、本土での講演では義援金を募った。また映画『ひめゆりの塔』の収益の一部を沖縄の学校教育のために寄付するよう東映にかけ合ったという。
小原が寄贈した図書は子供たちだけでなく大人たちも貪るように読んだ。敗戦ですべてを失った沖縄で、誰もが活字に飢えていた。那覇に住む主婦・金城つる子もその一人だった。金城哲夫の母である。
(初出)八重山日報
(追記)一箇所、訂正があります。小原が屋良の一年年長と書きましたが、これは間違い。小原は明治20年(1887年)生まれで、大正2年(1913年)広島高等師範卒。屋良は明治35年(1902年)生まれで、昭和5年(1930年)同校卒。したがって、二人は同窓ではあるが、同時期に在籍した事実はない。しかし、懇意にしていたのは、確かなようで、小原の著作に屋良の名前がたびたび登場する。
昭和31年、金城哲夫を隊長として玉川学園沖縄慰問隊が米軍政下の沖縄を本門しているが、そのとき金城は小原國芳の紹介状をもって琉球政府公選行政主席だった屋良朝苗に面会している。後年、金城夫妻の結婚式の媒酌人を屋良が務めることになったのは、これが機縁だったと思われる。