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裴亀子と天勝と伊藤博文 (前編)
伝説のマジシャン・松旭斎天勝の養女にして朝鮮舞踊家。実は伊藤博文の隠し子? さままざな歴史のスクランブルに立ちながら、21世紀に生を全うした女性エンターティナー・裴亀子(배구자)の波乱万丈
裵亀子の謎
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裴亀子(はい・かめこ/ペ・クジャ)の名前を筆者が知るきっかけとなったのが、伝説の女性奇術師・初代松旭斎天勝(しょうきょくさいてんかつ)の自伝『天勝一代記』である。とはいえ、その記述は「朝鮮の巡業中、乞われて弟子にした両班の娘で、朝鮮舞踊を得意としており、一時期は自分の養女にしていた」というわずか2行程度のもので、彼女の名が自伝に出てくるのはあとにも先にもそれ一度きりだ。弟子で養女というのだから、天勝もそれこそ手塩にかけて育てようとしたはずなのに、実にそっけなく、二人の間に何があったのかの興味も含めて、裴亀子の名は強く印象に残った次第である。
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とはいえ、当時(2011年と記憶する)、裴亀子に関する情報はネット上にもほとんどなく、たまたま国会図書館で見つけた京都花月劇場焼失を伝える1936年(昭和11年)4月15日付の京都日出新聞の記事に「裴亀子舞踊団は楽器の損害三万円」とあるのが、知りえたすべてであった。京都花月は言わずと知れた吉本興行の傘下の劇場で、裴亀子は天勝の元を離れ独立後は吉本興行に所属していたことになる。当時の3万円は現在の金額に換算すると約5千300万円。つまり、それだけの財産を持っていたわけだ。それから、「婦人画報」1920年(大正9年)7月号に「天勝の養女裴亀子」という記事があることを知るが、こちらは古書価格が6万円ということなので入手は断念した。
元祖イリュージョニスト天勝
さて、裴亀子の話に入る前に、松旭斎天勝について触れておきたい。1886年(明治19年)東京生まれで、生誕時の本名は中井カツ。11歳のとき奉公という形で奇術師・松旭斎天一に弟子入りし、人間大砲の「弾」役で初舞台を踏む。日本人離れした肉体美と愛らしさもあって、やがて天一一座を支えるスターに成長するのである。足掛け5年にわたる一座の欧米巡業にも参加、オリエンタルムードたっぷりの天勝の水芸(みずげい)は各地で評判を取り、パリではカジノ・ド・パリの舞台を踏む機会も得ている。川上貞奴、崔承喜、そして松旭斎天勝は戦前、海外でもっとも成功した「日本人」女性エンターティナーのビッグ3といえるだろう。
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26歳のとき天一の死が転機となり、彼女を慕う座員を引き連れ独立、松旭斎天勝一座を旗揚げすると、いよいよその名を不動のものとしている。
天勝の師匠・天一はそれまで「手妻」と呼ばれ寄席芸に過ぎなかった手品術の世界に西洋ふうの大掛かりな大道具や口上を導入、「奇術」へと昇華させた中興の祖であるが、天勝はさらにそれをショー・アップし、近代的な「魔術(マジック)」を作り上げた、文字どおりの元祖マジシャン、元祖イリュージョニストなのであった。彼女が現役時代に考案したオリジナル奇術は千数百種に及び、その多くが現代に伝わっているという。そして天勝といえば、何よりも華やかな舞台衣装の数々だ。和装はもちろんのこと、きらびやかローブ・デコルテや肌も露わと思わせる肉襦袢、コルセットにスパンコール。シースルーのドレスにライティングで体のラインを浮かび上がせるセクシーな演出で観客の度肝を抜いたこともあった。ちなみに天勝は、日本で最初につけまつげをつけた女性だともいわれている。
また女優業にも挑戦し、1915年(大正4年)、『サロメ』(オスカー・ワイルド作/森鴎外訳)を小山内薫演出で演じている。天勝は絹の白タイツに金の腕輪と腰飾りという艶めかしい衣装で、愛するヨカナーン(ヨハネ)の生首を抱いて踊る邪恋に狂った王女サロメを妖艶に演じ切り、連日、有楽座の観客を幻想の世界に遊ばせた。
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同年10月、天勝一座はこの『サロメ』一幕を目玉演目に京城入りし、朝鮮物産共進会の演芸館のステージに登場している。朝鮮物産共進会は、正式名称を「始政五年記念朝鮮物産共進会」といい、その名の通り、日韓併合5年を記念して日本統治の成果を宣伝するための一大産業博覧会で、京城の景福宮を会場に開催された。天勝一行は「満飾を施した腕車四十台を連ね、旗差物業々(ぎょうぎょう)しく、三十人の旗手、音楽隊に取囲れて」(京城日報1915年10月10日)の会場入りだったというから、大スターぶりが想像できよう。
一座は共進会の他、京城本町有楽座、京城龍山町佐久良座、仁川歌舞伎座などを巡り、いずれも満員御礼。11月6日に無事巡業を終えている。
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亀子の『小公女』
裴亀子の弟子入りはこの朝鮮巡業中のこととみるのが妥当だろう。1920年(大正9年)の天勝一座公演の新聞広告の演目紹介に「娘子達の小奇術・美代子 かめ子」の文字が確認できる。このかめ子が裴亀子であることも間違いない。亀子は1905年(明治38年)生まれであるから、天勝との出会いは10歳ということになる。
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函館新聞(大正9年年6月16日)に天勝一座の劇評を見受けたが、亀子が主役を演じた『小公子』に行を割いている。
《今度は劇としてお伽ばなしの泰斗である巌谷さゞなみ氏の翻訳になる「小公子」と云ふ三場ものが、帝都で既に紹介をしたもの、故貞奴の舞台を凌駕しやうとまで、劇にも進境を見せた天勝に、南部と三好と云ふ新らしき劇の舞台に立つた人が光つて居る上に、小公子に扮した少女かめ子は天才の技を備へていて、三場の内で──最も難場である老公爵(南部)の祖父に初対面の間に、少年の無邪気と母の教へをよく守つてむづかしい老公爵に親しむあたりが涙をしぼらせる處、天勝のエロル夫人も数度の舞台にかけたもので、何處やら──貞奴の様な面影を見せて、奇術以外の天才を発揮して居る。
大詰にソノ小公子の誕生日祝に室内の天井を万国旗で装飾したのは、日本化したのが、幾分舞台が小さくなつた感じはするが、テーブルの上に立つて小公子が一場のお話をする處──小波の叔父さん気分が現はれて、家庭劇の上乗である。》
翻訳を担当した巌谷小波(さざなみ)はいわずと知れた児童文学の大家。15歳の亀子がここまで激評されたのだから、さぞや天勝も鼻が高かったことだろう。
一方、故郷朝鮮の文芸誌『朝鮮公論』(大正12年7月号)の劇評は全体に辛口で、亀子に関してもこう苦言を呈している。
《彼女は朝鮮に生れているだけにその舞台は観客の驚異に値している。それ程人気を呼んでいるだけに、有頂天になりたがる。斯うした女の生活をあまりに踏み過ぎては居ないだらうか。殊に童話劇や歌劇に於て彼女独りが舞台一杯にはしやぐのは考へるべきことだ。舞台に立つ者の礼儀といふものを無視して彼女が気儘に振舞つているのが何時も眼についたのみならず、心ある観客を侮蔑したやうな悪フザケなどは、彼女の将来を光輝あるものとする欲望の前には絶対禁物である。》
一座のスターの座に天狗になっているということだろうか。慢心のなせる業かはしらないが、彼女は大人相手に軽口を叩くところは確かにあったようである。
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大正12年9月日の関東大震災を一座は浅草常盤座の楽屋で迎える。前日8月31日が公演の初日だった。この災害で大道具小道具の多くを喪失。
翌、13年。心機一転と新しい西欧魔術の視察を兼ねて、一座は役年間の長期アメリカ興行に出発。亀子も同行し、ステージ外では、本場のコーチについてみっちりとダンスのレッスンを受けている。これがその後彼女にとって大きな糧となったようだ。
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弟子としてだけでなく、養女として迎え入れるということは、それだけ亀子の素質にほれ込んだということなのだが、天勝が長く愛人関係にあった師・天一の子を子宮外妊娠で死産して以来、子供を生めない体になっていたということも理由のひとつであったろう。天勝は部類の子供好きで、公演では必ずひとつは子供向けの演目を入れることを信条としていた。当時、彼女は敏腕マネージャーの野呂辰之助と結婚したばかりで、養子縁組は後継のことも考えての判断である。天勝は生涯、何人かの養子、養女を迎えているが、皮肉なことにそれが亀子の出奔につながっていくのである。(続く)
・単行本未収録完全版
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