目からビーム!158 「友好」という名の呪い
2022年の最高裁判決から一年余。群馬県立公園群馬の森に建つ、朝鮮人戦時徴用労働者の追悼碑撤去の、県による代執行がようやく行われる。この碑を建てた“市民団体”や活動家による妨害活動も予想されるが、県は粛々と撤去作業を進めてほしい。
そもそも碑に書かれているような強制労働は事実ではない。戦時徴用を強制というなら、それは内地人もいっしょで、国民に課せられた義務に過ぎず、未払い賃金などに関しては日韓請求権協定ですべて解決済みである。それらをすべて無視する形で建てられた、あの追悼碑こそ歴史を歪曲した歴史修正の産物でしかない。
「記憶、反省、そして友好」と碑には日英韓の三か国語で記されている。この碑を建てた“市民団体”もそれを支援する総連や民団といった組織も、本当に「友好」を望んでいるのだろうか。友好は対等の関係にのみ生じる言葉だ。しかし、およそ韓国の文化に対等の人間関係は存在しない。上か下か、正か邪か、被害者か加害者の二元論が基本である。だから、彼らは日常些末なトラブルでもすぐ被害者マウントを取りたがる。被害者は加害者に対して絶対的優位に立つという文化なのだ。ゆえに韓国人は自分に非があっても絶対に謝らない。翻って日本人はすぐ「ごめんなさい」を口にする。人間関係を円滑にする方便と心得ているからだ。しかし、国際社会、とりわけ韓国との関係ではそれが命取りになる。
「日本人は相手が謝ればそこで終わる。韓国人は相手が謝ればそこから始まる」
これは僕の言葉だが、われながら名言だと自負している。憶えておいてほしい。
友好というならば、常に友好を裏切ってきたのは韓国の方ではないか。日本と韓国は1965年に国交を結んだ。国交を結ぶということは、それまでのこと水に流し、これからは仲良くしましょうということだ。すなわち友好である。そのために日本は有償無償の6億ドルを「和解金」として払っている。慰安婦だの徴用工だのを持ち出してのゆすりたかり行為は、彼らが根本的に友好を求めていないことの証左だ。
追悼の意味も日韓では違う。「安らかにお眠りください」と祈るのが日本人の追悼で、「あなたの恨みを忘れません」と祈るのが韓国人の追悼だ。韓国人の建てる追悼碑はそういった呪術的意味をもっている。そういう不健全なものを日本の、いや、地球上のどこにも遺してはいけないのだ。
(初出)八重山日報