天皇おそるべし~僕ら(日本人)が持つ最強のジョーカー
どちらが本家で、どちらが元祖か?
韓国では、日本の天皇に対し、「日王」と格下げした呼び方で呼んで溜飲を下げたり、侵略戦争の親玉だと罵ってみたりする反面、先帝陛下の"ゆかり発言"に「天皇が観半島出身者であると認めた」とはしゃいでみせるなど、かなりアンビバレントな感情が支配しているという話を別項で述べました。日本の天皇を悪しざまに言う同じ口で、その天皇をわれわれの遠い同胞だ、といって誇ってみせるわけですから、これほど矛盾した話もありません。現日本人を韓半島から落延びた百済の子孫だと主張する説も同様といえます。
そもそも、日本と朝鮮がルーツを同じであるという考え方、つまり日鮮同祖論なるものの出どころは韓国ではなく日本なのでした。「日鮮同祖論」という言葉を有名にしたのは1929年(昭和4年)の金澤庄三郎博士(東京帝大)による同名の本ですが、日本と半島を同祖とする考え方自体は、江戸時代の国学者の間でも語られていたことなのです。明治の初年、征韓論とともにこれが復活し、その後、日韓併合と同化政策の正当性を喧伝するためにさかんに利用されたという経緯があります。"ゆかり"発言で語られた、『続日本記』の桓武天皇の生母のルーツに関する話も、むしろこの時期に史学として強調されました。
要は、日本と朝鮮は祖を一つとする兄弟であり、バラバラになった兄弟がひとつになるべきだという理屈です。日韓併合を侵略、植民地支配と非難する韓国人なら、"ゆかり"発言にむしろ怒るのが筋かと思うのですが。
金澤庄三郎は『広辞林』の監修を務めた言語学者で、特に戦前における朝鮮語研究の第一人者として知られた存在です。私もはるか高校時代、氏の『日鮮同祖論』を読んだ記憶があります。日本語と朝鮮、蒙古語などの共通点などについてあれこれ書かれており、当時は大いに感心して読んだものですが、今思えば、語呂合わせ的な解釈もなきにしもあらずだったかもしれません。まあ、韓国でも、有名大学の教授が「万葉集は古代朝鮮語で読める」と主張するトンデモ本の類が複数出版されていますので、ここは強引におあいこといったところにしましょう。
要は同祖論的考え方は日本にも韓国にもあったということで、団子屋の看板の「元祖」と「本家」程度のくだらない議論に他なりません。どちらにしろ、最新のDNA研究で日本人と韓国人の間の血統的つながりは極めて薄いと証明されています。
韓国人も敬愛していた昭和天皇
韓国人はみな天皇が嫌いで、「日王」と蔑んでいるかといえば、これも多分に思い込みに過ぎません。韓国では相変わらず女性皇族への関心は高いですし(愛子内親王が留学先で韓国人留学生と恋に落ちるというトンデモ小説もあるようです)、特に併合時代を知るお年寄りの中には、日本人以上に天皇や皇室に尊崇の念を抱いている人も決して少なくないのです。
大木金太郎、本名、金一(キム・イル)というプロレスラーがいました。民族の英雄・力道山に憧れ、貨物船で密入国し東京の飲食店で働いていたところを入管法違反で逮捕されて長崎県大村の入国者収容所に収監されるのですが、収容所から力道山に手紙を書き弟子入りを果たしたというエピソードは有名です。金一青年の釈放に奔走したのは、力道山が懇意にしていた代議士・大野伴睦(自民党)でした。
この金一青年、日本に到着するなり、真っ先に訪れたのが皇居だったといいます。「日本に来た限りは天皇陛下さまにご挨拶しなければいけないと思った」。晩年のインタビューでそう語っていました。また、大木氏は終生『海行かば』を愛唱歌としており、酔うとよく披露されたそうです。氏は2006年(平成18年)に77才で物故されました。
昭和天皇のご大葬の折り、冷たい小雨の中をニ重橋の砂利の上にひざまづき長い間頭を上げずに祈っていた一人の老韓国人の姿がありました。「韓日文化研究協会」の朴鉄柱氏です。実はこのとき朴氏は末期の肺ガンで、残る命を振り絞るようにして、わざわざ韓国から、お見送りのために来られたのです。そして、ご大葬(2月24日)のほぼ一年後の1990年(平成2年)2月25日、韓国の馬山で亡くなっています。
《ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心という字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に断絶がない。それに対して韓国は、断絶につぐ断絶の歴史で涙なくしてみることはできない。》(朴鉄柱)
併合時代のよい思い出を語れるお年寄りがいなくなっていくということは、日韓両国にとっても寂しいことだと思います。
「天皇」に投げた石が韓国に当たる
実は、日本の親韓派左翼の中にもかなり矛盾をはらんだ天皇観のもち主が少なからずいるものです。
私も何人か古代史好きな自称リベラリストという人に遭ったことがありますが、共通しているのが、縄文時代への無邪気な憧憬です。彼らによれば、渡来人が来る前の縄文の時代こそが本来の日本なのだそうで、煎じ詰めて何を言いたいのかとえば、渡来人をルーツにもつ(と彼らが主張する)天皇は侵略者だ、ということらしいのです。
宮崎駿氏のアニメ『千と千尋の神隠し』もこれに近い裏のテーマがあるといわれています。あの作品に大挙登場する神々は、天孫降臨以前の国津神たちなのです。また、氏の『もののけ姫』で描かれるのは大和成立のはるか以前の古代アニミズムの世界でした。宮崎氏がかつて共産党員だったということはよく知られています。
ひと昔前まで、古代史好きの左翼が決まって担ぎ出すのが、江上波夫の騎馬民族征服王朝説と相場が決まっていました。簡単にいえば、東北ユーラシア系の騎馬民族が朝鮮半島南部を支配し、5世紀のころ日本に渡来して大和地方に王朝を立てたのが大和朝廷であるという説なのですが、他章でも触れたかと思いますが、現在、学問上これは完全に否定されています。しかし、天皇=渡来人=侵略者を唱える人たちの間ではロマンとして受け継がれているようで、この説を題材にしたフィクションが数多く見受けられました。脚本家の佐々木守氏もそういった創作者の一人です。佐々木氏は自他ともに認める反天皇制主義者で、日本赤軍の最高幹部重信房子の著書『わが愛わが革命』のゴーストライターを務めるなどかなりラジカルな新左翼的思想の持ち主としても有名でした。
その佐々木氏の反天皇制思想がもっとも色濃く出たのが、彼がメインライターを務めた子供向け特撮ドラマ『アイアンキング』(72年)です。異色作の多い70年代変身ヒーロー物の中でも特に異色な作品で、かくいう私も大好きで毎週かかさず観ていました。
何が異色かといえば、敵組織の設定です。日本の現体制転覆を狙う組織・不知火一族がそれですが、彼らはかつて大和朝廷に滅ぼされた日本先住民(熊襲をイメージしたものだとも言われています)の末裔なのです。彼らが敵視する日本の現体制とは天皇制そのものであり、彼らにとって日本征服という行為は先祖の復讐でありレコン・キスタ(聖地奪還)に他なりません。これを迎え撃つ巨大ヒーローがアイアンキングなのですが、当然ながら佐々木氏の筆は、正義の味方よりも先住民の方により感情が注がれています。さすがに反体制組織が正義のヒーローを倒し、日本を征服するというお話をTV番組、まして子供番組で描けるわけがなく、毎回アイアンキングが勝利するのですが、実はここで「描けない」としたのにはふたつの理由があります。ひとつはいうまでもなく放送倫理上の問題です。では今ひとつは何か。もし、不知火がアイアンキンを倒し日本本奪還を成しとげたとしたら、当然ながら、彼らのさらなる復讐の矛先が、侵略者(渡来人)のルーツである半島、そして大陸に向かわなければならなくなるからです。最終的に、朝鮮が敵になってしまいます。
つまり、天皇に投げた石はそのまま朝鮮半島にぶつかるのです。先に記した韓国人の天皇観のパラドクスと構造は同じと言えます。少なくとも渡来王朝説と反天皇制を両軸に語るのならそうなってしまうのは自明です。この落とし穴に佐々木氏が気づいていないわけがありません。逆にいえば、日本人を百済の末孫であるとすれば、日韓併合も半島を追い出された旧百済によるレコン・キスタになってしまうのです(明治以後の日鮮同祖論の狙いはそこにありました)。
天皇恐るべし――これは小室直樹氏の著書のタイトルですが、まさに恐るべしとしか言いようがありません。
三島由紀夫は1969年(昭和44年)5月の東大全共闘との討論の中で「私には君らにないカードがある。天皇というジョーカーだ」という印象的な言葉を残していますが、なるほど、このようなジョーカーの使われ方があったのかと改めて驚きました。
左翼的ですらある日本の右翼
左翼が反天皇制を掲げるのは、天皇を階級闘争の対象と見立てているからに他ありません。私も左傾化した戦後教育の中で、無意識の中で天皇=階級と刷り込まれてきました。しかし、次第にその見方には無理があるということに気づいたのです。理由はいくつかありますが、ひとつ挙げるとすれば、戦前の右翼といわれる人たちです。頭山満から石原莞爾にいたる大亜細亜主義の思想家にしても二二六の青年将校たちにしても、あるいは大陸浪人の類にしても、その主張は今の感覚から見れば、むしろ左翼的ですらあります。彼らの主張しているのは、平等社会の構築です。現に赤尾敏氏のように社会主義運動から民族派に転向する人も珍しくありませんでした。彼らと左翼の違いは天皇という中心軸を持つか持たないかに過ぎません。もっといえば、天皇を垂直(階級)に捉えるか、水平(中心)と見るかの違いです。
中国出身の評論家・石平氏は、京都御所を訪れたとき、その質素さと無防備なまでの開放性に驚きかつ感嘆したと著書に記しています。ヨーロッパでもロシアでも、あるいは中国でも、王や皇帝の宮殿といえば、威圧的な城壁に囲まれた絢爛とした建築物であると相場が決まっているからです。そして、石氏は世界最長を誇る日本の皇室の生命力の秘密が、この質素で無防備な住まいに象徴されていると結論づけます。
《もともと、民族の神話、生い立ち及び民族の伝統文化と深く結びついていたから、皇室は日本民族の存立条件そのものに自らの立脚点を持ち、政治権力に頼らない伝統的権威を自ずと擁している。》《だからこそ、権力に対する超然的な立場に身を置くことができた。このような立場にいると、いくつかの例外を除ければ、天皇家の地位は、政治権力の交代とはもはや何の関係もない、「雲の上」にある。》《超越的な存在としての無私無欲の皇室を持つことは、まさに日本民族の幸運であり、日本歴史の僥倖なのであろう。》(石平著『私は毛主席の小戦士だった』飛鳥新社)
天皇は権威であって権力(階級)ではない、と氏は喝破しているのです。
「天皇がたらふく食っているような堂々たるブルジョアだったら、革命は容易だったろう」という、三島由紀夫の言葉(東大全共闘との討論)に、私は何度も膝を叩きました。
昭和天皇は、昭和10年(1935年)に作った背広を戦後しばらくまでお召しになられて、夏の東北巡幸の折りには、かぎざきをつくろっていたといいます。侍従に再三新調を勧められても、国民が着るものもなく飢えているのに、服を作る気など起こらないとお答えになったそうです。まさに、仁徳天皇の「民のかまど」の御心そのままに、というところでしょうか。国民を置いて一人「たらふく食べる」天皇など今も昔もいなかったのです。
その昭和天皇ですが、学習院初等課時代、当時の乃木希典学院長が、仁徳天皇が税の免除を決心したという、「民のかまどから煙が消えた理由」について尋ねると、「神宮皇后の三韓征伐による国家の疲弊」と答えられたそうです。これを聞いた乃木院長は「ご自分のご先祖の失策についても冷静に語られるのは実にご立派なお態度」と感心したという話が残っています。
昭和天皇は三韓征伐、つまり、古代日本の朝鮮半島への侵攻を失策であったと認めているのです。これを聞いて韓国人は、乃木同様に昭和天皇の歴史分析を冷静であると褒めるでしょうか。それとも三韓征伐に対する反省がまだまだ足りないと怒り出すでしょうか。
おそらくそのどちらでもないでしょう。なぜなら、韓国では三韓征伐自体がなかったものにされているからです。古代史をいじれば、天皇をいじれば、やけどをする、そろそろ韓国も気づくべきでしょう。
天皇とは韓国に対する最高のジョーカーではありませんか。恐るべしです。
単行本未収録(2015年脱稿)