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併合時代のちょっとHな広告

澤田順次郎が見た朝鮮の奇習

大正中期から昭和初期にかけてのいわゆる大正デモクラシーは、エロ・グロ・ナンセンスの自由で享楽的な気風を生んだ。それは内地留学生を通して半島に伝播していく。その傾向は商業広告にも表れてる。
「澤田順次郎」(順治郎とも)という名前がいくつかの広告に出てくる。澤田は日本の性科学の草分け的存在で、筆者の世代でいえば、奈良林祥センセイや増田豊センセイ、といったポジションにあたる人物のようだ。ただし、医師ではなく、海城中学の博物学の教師の職にあった人だという。澤田は1863年、つまり文久3年の生まれ。教師現役の1912年(大正元年)に初の著書『性慾論講話』を刊行しベストセラーに。以後、著述に転じ、多数の性医学、性技巧、異常性欲に関する無数の書物を世に出し、『性』、『性の知識』、『性欲と恋愛』といった雑誌も創刊している。正統学問的な医学界からはキワモノ視されていたが、大衆の根強い支持を受けていた。

『処女及び妻の性的生活』。澤田順次郎先生のロング・セラーである。「女子の肉体及び性欲作用」。広告の上に、10月26日付記事中の表現が当局の検閲に触れて押収の上に発禁を食らったという、東亜日報社の告知がある。(東亜日報1923年11月3日)
澤田順次郎先生新著『女子の裸体美の新研究』。「日本及び諸外国の裸体美人」「本書・著書・多年・研究・蒐集・材料・各国美人・赤裸・裸体美・生殖器神」フムフム。澤田先生絶好調。(東亜日報1926年6月17日)
澤田順治郎先生著『餓鬼道』。古今東西の性にまつわる奇習を紹介。それにしても、この時代すでにSMとは。しかも、責めているのは女性である。ところどころ伏字(〇〇)もあって、なるほど「餓鬼道」の名に恥じぬ広告だ。(東亜日報1923年9月18日)

澤田が朝鮮とどれほどの関わりをもっていたかは不明だが、彼は著書『売笑婦秘話』(1935年)の中で、朝鮮及び支那の一部にみられる独特の風習として「妻妾抵当」なるものを紹介している。「妻妾抵当」とはその名が示すように、借金の際に自分の妻なり妾なりを抵当にすることで、《その担保にも、二種あるやうだ。即ちその一は、金と引き換へに、其の担保とした妻女を、債権者に渡すもので、他の一は、返済の出来ない場合に、其の担保として妻女を債権者に引き渡すのである。》(澤田)としている。「女房を質に入れても」という成句があるが、朝鮮では文字通り、女房をカタに金を借りる習慣があったのだ。
また、『餓鬼道』では、多田春潮なる人物の語るを記す、として朝鮮の妾文化について触れ、《朝鮮人は、蓄妾(ちくしょう)をもって、社会組織上の重要事と思惟し、之れをもって人道に反するものと為(な)すが如き観念は毫末(ごうまつ)(但馬註・毛ほどの細かなもの)もないのみならず、寧(むし)ろ之を誇りと為す。実に彼等は蓄妾をもって、生活に欠くべからずものとなし、日本人の秘密裡に蓄(たくわ)うるものとは全然趣(おもむ)きを異にし、堂々他人に向かって、之れを公言し、蓄妾の有無を聞くことを憚(はばか)らない。》としいる。

「いいようのないよろこびの珍本八冊」「男女美人法」「女子の秘密」「春色梅暦」「夜の玉手箱」……「女体の赤裸々」「女子肉体の構造と性欲作用」「結婚初夜の智識」。「枕の草紙」には笑った。(東亜日報1924年9月7日)
『性愛宝典・結婚初夜の知識』。初夜とか夫婦生活という言葉がエロかった時代だったのか。。この本を枕元にコトに及んだ若夫婦も多かろう?さすがに「五百萬組」はないだろうが。(朝鮮日報1928年5月9日)


思えば、「四十八手」というフレーズもなつかしいものがある。付録で「枕哲学」なる小冊子がついてくるらしい。医学や科学を超えてセックスは哲学へ。(東亜日報1930年5月?日)

余談ついでにつけくわえるなら、澤田順次郎の弟で地質学者の澤田俊治は朝鮮で教員をしていたことがあり、おそらく兄の朝鮮習俗の取材には彼のサポートがあったことだろう。
この俊治という人物もかなりの奇人だったようで、朝鮮の学校を退職後、日本国内を無銭で放浪、さらに、満州、樺太、台湾、蒙古まで足を延ばして、托鉢で粥をすすりながら、ひたすら化石の採集に没頭していたという。アイヌ民俗学の権威で教育者の吉田巌は、訪問を受け初めて会ったときの俊治のいでたちについて、まさに弊衣蓬髪(へいいほうはつ)、足袋は破れて10本の足指が露出していたと記している。同時に、その学識の深さには大いに舌を巻いたという。

『男女生殖器図解』。こんな堂々としたタイトルでいいのだろうか。キセルをもった妓生のイラストが可愛い。「性交法の研究」「男女手淫」「生殖器病自宅秘密治療法」。(朝鮮日報1925年6月1日)
「驚異的長春術」「最強催促性精力原素キング・オブ・キングス」「性欲学泰斗・獨医学博士・羽太鍛冶氏発明」…あ、怪しい。絶対、怪しい。この時代になるとデザインはかなり洗練させてきている。羽太氏はこの広告の10年ほど前に神経衰弱で自殺。(東亜日報1938年2月27日)
リギングとはコンドームのこと。この当時は避妊具というより性病予防具としての需要が高かったようだ。伏字の〇〇〇が、いろいろと想像をかき立ててくれる。女子専用具って何だろう。(朝鮮日報1925年5月4日)
「男女珍具」「男女和合之友」「不感症塗布薬」「男女和合塗布薬」「早漏防止器具」。赤あんど薬局は現在も大阪で営業をしている。珍具を買えるかどうかはしらないが。(朝鮮日報1931年6月12日)(左)。「産児調整所」。当時の避妊具の写真のようである。鄭錫泰(チョン・ソテク)博士は産児調整の提唱者。『三千里』1929年3月号にも「コンドーム使用は無害」という啓蒙記事を寄せている。(朝鮮日報1930年4月?日)(右)。
短少(ママ)、機能障害…。思春期の男の子にとって性のコンプレックスはつきないもの。まさに懊悩である。左の建物の写真は「東京府療法研究所外景」なのだそうだ。(朝鮮日報1931年4月23日)


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但馬オサム
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