追悼・谷岡まち子さん 初代女性公害Gメン・遠藤理恵フォーエヴァ―
遠藤理恵の『宇宙猿人ゴリ』
元女優、モデルで漫画家、谷岡ヤスジ氏夫人の谷岡まち子(旧姓・小西)さんが、昨年の11月に亡くなっていたことを知った。狭心症という持病をお持ちだと言っておられたので、てっきりそちらが原因かと思ったら、長く肺ガンで闘病されていたという。そういえば、まち子さんはヘビースモーカーだった。煙草は結婚後に覚えたようで、御主人であるヤスジ先生が闘病生活に入られるとそれを支えるストレスで、ついつい本数も増えていったとのこと。明大前のご自宅には何度か伺ったが、当時、僕も喫煙者で日に3箱開けるほどだったから、「但馬さんといると気兼ねなく吸えるわ」などと言われるとこちらもつい調子づいたもので、谷岡家の居間は濃霧のようになっていた。
まち子さんといえば、なんといっても『宇宙猿人ゴリ』(『スペクトルマン』)の初代女性公害Gメン・遠藤理恵役である。小学校4年生の僕にとって、遠藤理恵は最高に「カッコイイお姉さん」だった。金髪のウルフカットのおでこにサングラスを乗せ、革のベストにパンタロンといったスタイルは、70年代ファッションのお手本といえる。ボーイッシュな雰囲気は、当時流行のユニセックス路線で括られ、雑誌などではピーターとカップリングで紹介されることが多かったという。金髪おでこに大きめのサングラスを乗せるスタイルは、今世紀に入って、浜崎あゆみや沢尻エリカが復活させたけど、それを見て、遠藤理恵だ、と思わず声を上げたくなってしまったものだ。
それまでの子供番組のお姉さんというと、主人公に思いを寄せて脇から支えるとか、逆に敵に捕らわれるなど主人公側の「弱点」になるとか、どちらかといえば添え物的なポジションにいることが多かったが、遠藤理恵はスタイリッシュで颯爽としていて、主人公の蒲生譲二を「蒲生君」と呼ぶ姉貴ぽさはウーマンリブの時勢を反映してなのか、子供心にも実に新鮮だったのだ。譲二はそんな理恵を「先輩」と呼び、二人のやりとりは譲二の二枚目半的要素が際立って、実に面白かったし、ラーが理恵に惚れているという設定も作品世界に深みをもたせたような気がする。だから、遠藤理恵がなんの説明もなく番組から消えたのには、正直がっかりしたものだ。続く2代目女性Gメンの立花みね子役の親桜子さんは実に清純派タイプの美少女(番組キャスト、スタッフの間で「親桜子を守る会」が結成されたという)で、むろん僕もすぐにファンになったが、個人的には遠藤理恵で番組を通してほしかったと思う。でも、怪獣Gメンのパトランプ付きヘルメットはスタイリッシュな彼女に似合いそうもないな。
▲レコードも出されていたとは。ブラス歌謡の隠れた名曲(?)
『ゴリ』出演&降板のいきさつ
まち子さんとのご縁は、むろん『スペクトルマン』関連本でのインタビューだった。今述べたとおり、まち子さん自身かなり異色なキャラクターだったし、当時、『11PM』や『オールナイトフジ』(あの女子大生番組とは別物)など深夜番組のアシスタントなどをやられていて、子供番組のヒロインらしからぬ、という意味ではかなり思い切ったキャスティングだったのではないか。まち子さんによれば、フジテレビからのお話なので迷わずお引き受けしたとのこと。まあ、よく聞く話といえばそれまでだが、TV業界には、仕事にかこつけて女優に関係を迫るウザいプロディーサーやADというのが確かにいるらしい。当時、まち子さんはフリーの女優で事務所のガードもなかったが、逆に自分で仕事を選べる立場だった。フジテレビでの仕事では、今いったようなイヤな経験は一切なく、フジの番組ならば無条件で出演していたとのことだ。
実際、『ゴリ』の撮影に関しては、楽しい思い出ばかりだという。
「まだ寒い時分のロケだったんだけど、お昼ごはんの時、スタッフがドラム缶で豚汁作ってくれたの。それがとても暖かくておいしくて。男の人ばかりの現場で最初はちょっと不安だったけど、これなら続けられる、と思ったわ」。このロケは、第3話「青ミドロの恐怖」のときと思われる。
遠藤理恵の衣装はほとんど自前で、好きなものが着られるのも楽しかったことのひとつだという(第5話「恐怖の公害人間!!」で着用していた赤のレザーの上下は、その後、『キイハンター』ゲスト出演時にも着用している)。生放送の深夜番組と早朝ロケの多いドラマの両立は大変で、髪をセットする時間を節約するために、ウルフカットのウィッグをいくつも作り、それを被っていたという。しかし、その無理がたたり、第12話撮影中に倒れて緊急搬送、ドクターストップがかかってしまったというのが、降板の真相である。
スペクトルマン、ラー役の上西弘次氏とはとても気が合い、撮影の合間よくおしゃべりをしていたそうで、上西さんの話をするときはいつも嬉しそうな表情を見せていた。もしかしたら、当時ほのかなものを感じていたのかもしれないな、と思った。上西さんは柔道、空手の有段者で、殺陣一筋にやってこられた方で、あの松田優作が兄貴と呼んで慕っていたという男気の人。まち子さんはどちらかといえば、頼りがいのある精神的にマッチョなタイプの男性がお好きなようだった。
谷岡ヤスジ先生もああ見えて、かなり男っぽい人なのである。Wikiでは、『11PM』のロケで出会ったとあるが、実はそれ以前、『オールナイトフジ』にヤスジ先生がゲスト出演した際に顔を合わせている。初対面の印象は不愛想な感じで最悪だったらしい。それが、『11PM』のロケバスの中では、「意外に優しい人ね」に変わり、気が付くとほんわかムードになっていた。ラブコメの定番コース。ヤスジ先生、計算してやっていたとしたら、なかなかの策士である。
地獄へ来たつもりで来い
とはいえ、結婚生活も当初はひと悶着もふた悶着もあったようだ。
「新婚旅行に出発するときの言葉が、『地獄に来たつもりで来い』よ。この人何言ってるの? と思ったわ」
その新婚旅行からの帰宅がまさに「地獄」の入り口だった。新居のドアを開けたとき、男より先に入るな、といきなりひっぱたかれたという。お父上が大学教授で、比較的リベラルな家庭環境で育ったまち子さんは、この男尊女卑ぶりがショック、というよりまったく理解不能だった。いつでも逃げ出せるように、自分の荷物は段ボールに詰めたままだったという。実家に電話をかけたことも一度や二度ではない。そのつど、なだめるのはお父上だったという。
「何でこんな人と結婚しちゃったのかなと最初のころは毎日思っていた。でもね、それが10年くらいしてよ、ああ、この人の言うことってこういうことなのかとわかるようになって…。だからね、やっぱり夫婦って10年くらいは辛抱してみるものね」。
谷岡家のガレージには、いつも一台のジープがまるで忠犬ハチ公のように帰らぬ主人を待っていた。
「車買うなら絶対にジープって言ってた。子供のころ見た進駐軍のジープがカッコよくて憧れていたんだって。ジープを買ったら、真っ先にお前を乗せて走るから、そのときの恰好(ファッション)も今から考えておくんだぞ、なんてね。2年も経たずに、その約束を果たしてくれたわ」
ヤスジ先生が終生ライバル視していた漫画家はただ一人。ヤスジ・ギャグとは対極の存在の長谷川町子だったというのは意外である。
「描き終わったばかりの漫画を私に読ませて、『どうだ、長谷川町子より面白いだろ』といって満足そうな顔するの」。
なんでも、ある漫画賞の選考で、「この漫画、よくわからないけど、なんだか面白い」とヤスジ先生を強く推してくれたのが、長谷川さんだったそうで、ライバル視はそのお礼の意味もあったのだろう。反対に、ヤスジ漫画を選から外すよう主張した選考委員が赤塚不二夫だったというのも意外だった。
最後に谷岡まち子さんとお会いしたのは、正確な記憶がないが、もう20年ほど前になる。思い出のつまった明大前の家を売却し、娘さん夫妻のいるアメリカのシアトルで生活するのだと伺った。アメリカからも一度電話をいただいた。亡くなられたのは、日本の病院のようだ。仲のよかった弟さんにも看取られたのだろう。
「『地獄に来るつもりで来い』。そんなセリフ、僕も言ってみたいですね」と言ったら、「うん。言える人、早く見つけなくちゃね」とまち子さんに笑われた。あのチャーミングな笑顔が忘れられない。
(初出)
『昭和39年の俺たち』2023年5月号