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朝鮮の奇習「早婚」悲喜こもごも

貢女と早婚

日韓併合時代、朝鮮の近代化を急ぐ総督府が頭を悩ませたのは、頑迷な儒教思想からくる因襲の数々である。
 たとえば、「未亡人の再婚の禁止」がそうだ。《貞女、二夫にまみえず》の道徳?が朝鮮ではドグマ化し半ば戒律となっていた。そのため、夫を失い乳飲み子を抱えて露頭に迷う女性や、果てには思いあまってわが子に手をかける女性の悲劇も少なからずあったという。憂慮した総督府は女性の再婚を解禁したが、それが全半島に浸透するにはかなりの時間が必要だった。
 同じく弊害多い古き因襲として打破の対象となっていたものに「早婚」の風習がある。早婚、つまり年幼くしての結婚だが、日本でも10代で結婚することが珍しくなかった時代、ことさら朝鮮の「早婚」が奇異なものに見えたのにはわけがありそうである。

「早婚の悪習を打破せよ」(毎日新報1921年=大正10年2月13日)。毎日新報は総督系の新聞。

 女子の早婚と男子の早婚に分けて語ろう。
 まずは女子の早婚である。話は高麗時代にさかのぼる。宗主国であった元(モンゴル)は、高麗に「宦官」と「貢女」の献上を強いた。貢女(コンニョ)とは呼んで字の如し。あえて説明はいらないだろう。
《しかし、高麗朝の貴族社会にとってもっとも苦痛だったことは、処女を「元」に献上せざるをえないことだった。モンゴル人の将兵たちも、高麗朝に女を求めた。貴族たちは「蛮子軍」に女を献上せざるをえない。それ以後の「明」にも「清」にも「貢女」を献上せざるをえなかった。》(黄文雄『歪められた朝鮮総督府』)
 貢女は良家の娘でもちろん美人、そして処女が原則であった。大陸に送られる貢女の数は李朝時代で毎年3000人という史料もあるが、黄文雄氏はさすがにこれは誇張された数字としている。しかし、100人単位の処女が献上されたのは確かであろう。中には、宗主国の基準に満たない者、つまり常人階級以下の娘、非処女が混じっていることもあり、その場合、娘は追い返され、朝鮮の役人は激しい叱責を受けた。そこで、高麗政府は「寡婦處女推考別監」なる役所を設け、貢女に相応しい女子の選別に取り掛かった。
 心穏やかでないのは、娘をもつ親である。親の中には、役人の目を逃れるために、初潮もみないような娘を婚礼させる者も現れた。これが女子の早婚の始まりだという。なお、李朝政府は貢女確保のために、12歳以下の女児の婚姻を禁じている。

早婚打破を訴えたのは総督府だけではない。当時の朝鮮人の進歩的文化人の多くがその害毒性を訴えた。梁承煥(ヤン・スンファン)の署名記事。(東亜日報1924年=大正13年11月24日)。

新妻の皮を剥ぐ

 男子の早婚は、これとやや事情が違い、純粋に世継ぎの問題である。ご承知のとおり、儒教では血統を絶やさないことが最大の孝とされている。そのためには、長男には幼児の頃から妻を娶らせ、世継ぎを確保することが望まれるのだ。この場合、幼い男児に同年齢の幼な妻をあてがうのと、はるか年上の女性をあてがうのと、二通りのパターンがある。
 特に新郎新婦が幼年の場合、心配なのは、”閨の行為”が正しく行われるかどうかである。これを間違えると世継ぎが望めないからだ。そこで生まれたのが、シンバンヨッポギ(新婚覗き)という奇習だった。新婚初夜の寝室の障子に穴をあけ、新郎の母親やおばあちゃん(なぜか女性の役目のようだ)が段取りを指示するのである。

シンバンヨッポギ。子供も覗いているが、後学のため、なのだろうか。
京畿道揚州市の青岩(チョンアム)民俗資料館。シンバンヨッポギを再現した人形。
同。まさに床入れの儀式。年上妻との初夜の場合も、慣例としてシンバンヨッポギが行われることもあった。
終わったあとはこのとおり。

 まったくの奇習といっていいが、これにまつわる悲喜劇も伝わっている。ある肉屋(白丁)の息子が初夜の床で、障子の向こうから「脱がす」よう指示を受けたが、彼は「脱がす」を「皮を剥いで」と解釈し、牛刀で新婦の生皮を剥いでしまったという。ただ、この話は異説もあって、まず「皮を剥ぐ」事故が先に起こり、同様の悲劇を繰り返さないようにシンバンヨッポギが始まったとというのである。どちらにしても、この話はジョークや寓話の類でなく、実際にあった話のようだ。

早婚夫婦。古い新聞記事によれば、9歳で出産、16歳でお役御免となって離縁された娘もいたという。

 幼年の夫に年上の女を番(つが)わせるパターンだが、こちらの理由もいたくシンプルで、成熟した女性の方が妊娠しやすいからというものである。新郎が6歳、新婦が20歳というケースも珍しくなく、中にはより確実なセンを狙って経産婦が送り込まれることもある。その場合の多くは、使用人の女房で、亭主や子供から引き離して事にあたらせた。こうなると女は世継ぎを産ませるための培養器に過ぎず、元より人権意識などかけらもない世界であった。

姦通と夫殺し

 もう少し具体的な弊害の例をあげよう。子供は総じて好き嫌いがはっきりしていてわがままでもある。親が選んだ花嫁がどうしても気にいらず、手をつけることを拒んだときは、離縁となる。世継ぎを産むことが最大の使命であるから、石女も当然離縁の対象だ。離縁されれば、未亡人同様で生家の敷居をまたぐことも許されず、物乞いに身をやつす者さえいた。数少ないセーフティネットとして機能していたのが尼寺だという。9歳で未亡人となった幼な妻もいたというから、彼女のその後の人生が気になる。総督府がこの悪習を何とかしようと思ったのも当然だろう。
 そればかりではない、年齢の離れた結婚からくるストレスから発病、自殺する花嫁もおり、性行為の苦痛から逃れるため家に火をつける幼な妻の事件もいくつか報告されている。これに関しては性的に未熟な夫にも応分の責任があるだろう。1925年(大正14年)には、妻が11歳の夫を絞殺するという事件まで発生した。
 1921年9月6日付の毎日新報は、西大門刑務所の同年6月の調査結果として「女性の犯罪でもっとも多いのは殺人で208人、姦通が110人。その多くは婚姻にまつわるもので、殺人は夫殺しが目立つ」と報じている。
 一方、早婚を苦にした男の自殺の例も若干ながらあるようである。1923年10月14日付で報じたところによると、現在の北朝鮮に位置する両江道甲山郡の15歳の薬学生・金張盆(キム・ジャンイク)が、親が決めた妻との愛のない同衾に耐えられないと言い残して旅館で昇汞水(塩化水銀)を煽ったが、幸いにも未遂に終わっている。妻は14歳だった。

「早婚の害毒。十一歳の夫絞殺」(毎日新報1925年=大正14年1月23日)。当時は姦通も横行していたようである。

 1922年、総督府は朝鮮の婚姻法を改正し、結婚年齢を内地と同じ、男17歳、女15歳に定めたが、この後も地方などではイリーガルな形で早婚は行われていたようである。

新女性の時代と早婚の衰退

 大正末期から昭和の初め、朝鮮から内地へ多くの留学生がやってきた。彼らの多くは良家の子女で知識階級にあり、近代朝鮮の担い手ともいえるエリートたちだった。”朝鮮近代文学の父””朝鮮の孫文”といわれた李光洙(イ・グァンス)、夭折の詩人・崔承九(チェ・スング)、思想家の崔麟(チェ・リン)などの名がまず頭に浮かぶ。彼らはいずれも早婚者で妻子を故郷に残しての留学である。彼らはしばしば、同じ内地留学組の女子大生と恋愛騒動を起こしているが、ありていにいえば、不倫だ。自分が望んでの結婚でもない、10歳も年上の女房と離れ、内地の自由な空気の中で同年代の女子との恋愛で大いに羽根を伸ばしたいという気持ちも男ならわからなくもない(?)。李光洙は女医・許英粛(ホ・ヨンスク)とのおしどり夫婦で知られるが、二人が知り合ったころ李には糟糠の妻ならぬ早婚の妻がいた。許は今でいう略奪婚をしたことになる。くわしくは稿を改めて記したいが、李はかなりモテモテだったらしく、許英粛の他にも多くの留学女子と浮名を流している。
 留学女子の方も、相手が妻子もちであることなど百も承知でラブアフェアを楽しんでいた。そもそも内地に留学するような女子は、「新女性(シンニョソン)」呼ばれた当時の進歩的モダンガールに属し、旧弊な家父長制に抗い、自由恋愛を主張し、平塚らいてうに傾倒する男女同権主義者だったわけで、不倫などで尻込みするようなタマではない。より正確にいえば、大正デモクラシーの自由な空気を吸った留学生女子が、内地の先端ファッションや思潮を半島に持ち込み、誕生させたのが「新女性」というムーヴだったのだ。

当時の朝鮮の若い女性のオピニオン・リーダー的雑誌、その名も『新女性』。短髪は新女性のシンボルでもあった。

  新女性の台頭は、旧来の男尊女卑的な儒教道徳に対するカウンターであり、耳を目を塞がれ続けてきた朝鮮女性の自立を啓蒙する運動へもつながった。そして、彼女らの登場により、早婚風習は急速に過去の遺物に転じていった。総督府や朝鮮のインテリが手を焼いていた因襲の打破を新しい時代の女性たちがいとも簡単になしとげてしまったのである。

崔承喜と『草笠童』

 1937年(昭和12年)11月、半島の舞姫と異名を取った舞踏家・崔承喜(チェ・スンヒ)とその一行は、横浜港を旅立った。約3年に及ぶ欧米公演旅行のためだ。米国を振り出しに、フランス、イタリア、ベルギー、スイス、ドイツ等を周り、最終的には南米にまで足を延ばし、各地で大喝采を浴びた。フランスでは、パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、ロマン・ロランらが彼女の芸術に魅了されている。
 フランスを代表する日刊紙フィガロ紙(2月6日付)はこう報じている。
《1938年12月24日、ル・アーブル港に到着したチェ・スンヒは、パリで「幼な夫」「菩薩ダンス」「'アリラン」など朝鮮舞踊を中心に華やかな公演を繰り広げた。ピアノ、バイオリンの伴奏に加えて、ソヘグム(二胡)、カヤグム(琴)、テグム(横笛)などの朝鮮楽器を直接演奏していた。この日の公演は、定員2千546席の会場が観客にいっぱいの大成功を収めた。最も人気を集めたのは「幼な夫」で、パリで一時、婦人の間に小型の草編み帽子(petit chapeau d’herbes)が流行ったほどだ。》
「幼な夫」(L’enfant mari)とあるのは崔承喜が古典から材を取り独自に創作した「草笠童」(チョリプトン)を指すものと思われる。草笠童とは子供用の帽子のことで、草笠童を被るような年齢で妻を娶らされる童子の”嬉し恥ずかし”な様子を、ユーモアを交えて演じる内容になってる。

『草笠童』を踊る崔承喜。草笠童はその名のとおり、草を編んで作られ、側部をクジャクの羽根で飾った。
草笠童(左)とそれを模して作られた帽子(右)。崔承喜の踊りはパリのモードを変えた。

 既に時代遅れとなっていた早婚風習を崔承喜は舞踏の中に蘇らせたのだ。それは消えゆく風習への民族のノスタルジーという側面もあったに違いない。むろん、ある種の皮肉も込められているだろう。そして、韓国人のノスタルジーは、欧州人の目にはとってはこの上もないエキゾチズムだったのである。

▲『草笠童』は今でも多くの韓国舞踊家によって演じられている。

 本稿では、早婚の弊害ばかりを論じてきたので、こういうエピソードも紹介しておきたかったという次第。
 
早婚コメディ映画『子供新郎』シリーズ

 早婚を題材にしたエンタメ作品といえば、映画『子供新郎』(1970年)について触れておかなくてはならない。
 名子役・金延勲(キム・ジョンフン)の出世作にして最大のヒット作。続編が作られシリーズ化し、彼主演で役柄設定を変えた『帰ってきた赤ん坊新郎』なるスピンオフ作品も生んだ。早婚コメディはジャンル化し、多くの亜流作品が製作されたという。

『子供新郎』。金延勲は現在、実業家として成功しているという。
『続子供新郎』。前作よりいくぶん成長しているのがわかる。

▲映画『子供新郎』より。シンバンヨッポギ(新婚覗き)もしっかり描かれている。

伝統文化の継承という形で、現代でも地方の観光行事などで「早婚」が再現されることもあるようだ。

 KBS制作の子供向けアニメ『子供新郎カンドリョン』。障子の穴を視聴者である子供にどう説明するのだろうか。

障子の向こうの笑い声にきづくカンドリャン。

 大切な床入れの儀式なのに、幼いカンドリョンはおしっこをもらしてしまい新妻をてこづらせる。

金色の壺がおまるのようだ。李朝時代の両班の習慣がよくわかる。

動画はこちら。


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但馬オサム
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