抗日英雄はメイド・イン・ジャパン(前編)
実は右翼に愛されていた安重根
韓国で、伊藤博文暗殺犯の安重根(アン・ジュグン)がタイムスリップして日本の安倍首相をハルビン駅で狙撃するというトンデモ小説が話題になっているそうです。『安重根、安倍を撃つ』(14)というベタなタイトルのその小説では、幸い(?)安倍首相は一命を取り留めるのですが、安重根は殺人未遂で現行犯逮捕されてしまいます。裁判にかけられ証言台に立った安は、「安倍首相の15の罪状」(慰安婦問題、竹島問題、教科書問題、靖国問題など、おなじみの項目が並びます)を述べ自分の行動の正当性を主張します。彼の堂々たる態度は裁判官を感動させて、それまで形勢不利だった法廷の空気を一変させてしまうのだそうで。
「15の罪状」は、実際の安重根が旅順の裁判所で挙げた「伊藤博文殺害の15の理由」からの着想であるのはいうまでもありません。しかも、裁判長の名が孫文、検察官が蒋介石、判事が魯迅、康有為、弁護人が周恩来というのですから、いよいよ恐れ入ってしまいますが、明らかにこれは、昨今の中韓反日合作を多分に意識した設定のようです。このトンデモ小説の作者が、あの家族愛を描いた感動作『父のいた日々』で日本でも知られたキム・ジョンヒョン氏というのですから、韓国ブンガク界の底知れぬ奥の深さを思い知った次第です。
韓国で三大義士といえば、安重根、李奉昌(イ・ボンチャン)、尹奉吉(ユン・ボンギル)となります。李奉昌、尹奉吉の師匠格の金九(キム・グ)を合わせて四大義士という言い方もあるようです。かの国でいう義士とは即ち対日テロリストです。李奉昌は1932年(昭和7年)1月、昭和天皇の馬車に爆弾を投げつけ近衛兵一人に重症を負わせたいわゆる桜田門事件の実行犯、尹奉吉はやはり同年4月、上海虹口公園で行われた天長節式典に爆弾を投げ込み多数の死傷者を出した上海天長節爆弾事件の主人公で、いずれも劣らぬ殺しのプロフェッショナルたちですが、その中でも安重根は人気、知名度ともにダントツの存在といえます。いや、単なる義士を超えて、韓国民のアイドル、スーパー・ヒーローといっても過言ではありません。それを裏付けるのは、多種多様な安重根関連グッズの数々です。安の"義挙"を描いた絵本、マンガ、アニメは複数刊行されていますし、彼を模したリアル・フィギア(↑タイトル画像)、ハルピン事件を再現した立体ペーパークラフト玩具、幼児用紙お面など、枚挙にいとまがありません。
安の人気が突出して高いのは、対日テロリストの嚆矢的存在だったことももちろんですが、何よりも日本における彼の評価に寄りかかる部分も大きいと思うのです。「評価」というと、いささか語弊があるかもしれませんが、日本では李奉昌や李奉昌が単なるテロリストという認識にとどまるのに、安重根に関しては、独立運動家、愛国者という一定の地位は与えられているのです。安重根が実は日本の天皇に対し尊崇の念を持ち、日露戦争の勝利を心から喜んでいたことは、獄中記した「東洋平和論」を読んでも明らかです。そのためか、日本では今も昔もどちらかというと右翼と呼ばれる人に、安を評価する声が高いといわれます。新右翼運動のオピニオン・リーダーだった野村秋介氏も歴史上尊敬する人物として安重根の名を上げていました。また、安が一人一殺のローン・ウルフ、一匹狼のヒットマンだったことも右翼の共感と無念ではないでしょう。安のテロルは多分に極右的ですが、李奉昌や尹奉吉のそれは極左的です。
投獄された旅順監獄の看守で、安の監視役だった千葉十七が、彼の人柄に魅せられ、よき理解者として最期を見送ったという話はつとに知られていますし、安もその礼に報いるために墨書をしたため千葉に贈ったという逸話も胸を打つものがあります。千葉は安の墨書を家宝として終生大切にし、安の供養を欠かさなかったそうです。刑務所長であった栗原貞吉、主任弁護士の水野吉太郎も獄中の安と特別な友情で結ばれた日本人でした。水野は公判中、安の行動を幕末の志士になぞり、殺人罪ではもっとも軽い懲役3年が妥当であると主張し続けました。
韓国民の反応は安重根=バカやヤツだった
一方、当時、大韓帝国と号していた韓国国内の安重根、および安の事件の評価はどのようなものだったのでしょう。
「伊藤を失ったことで、東洋の人傑がいなくなった。公はわが国に忠実正義をもって臨み骨を長白山(白頭山)に埋めて、韓国の文明発達に尽くすと揚言していた。日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の平和を念じた者はいない。実に伊藤はわが国の慈父である。その慈父に危害を加える者があるとすれば、物事の理事を解さないこと甚だしく、おそらく海外流浪人であろう」。
これは伊藤死す、の報を聞いて発した高宗の言葉です。ハーグ密使事件発覚後、伊藤によって退位を余儀なくされて以来、伊藤を心底煙たがっていた高宗からして、伊藤を「人傑」「わが国の慈父」とまで形容して哀悼の意を捧げ、安重根に関しては「物事の理事を解さない流浪人(流れ者のヤクザ)」と唾棄にも等しい言葉で斬り捨てています。少なくとも高宗の目には、真に「東洋平和」を願っていたのは、安重根にあらず伊藤博文であったということです。
韓国政府の反応も同様で、当時の知識階級の間では、安について「馬鹿なことをしてくれた」「国の恥」という見識が大勢でした。「元」がつくとはいえ一国の首相だった人物を殺害したのですから、宣戦布告さえ言い渡されてもおかしくない状況であり、韓国民の動揺は当然といえば当然でしょう。3万人の会員を擁する大韓協会は「殺害は韓国国民の意思ではない」という声明と弔辞を送ったし、謝罪団を募って訪日もさせています。また京城(ソウル)では1万人規模の追悼集会が行われ、追悼会は全国各地へと広がりました。
伊藤博文暗殺から23年後の1932年(昭和7年)10年に、京城(ソウル)の南山に、伊藤博文の菩提を弔うその名も博文寺(はくぶんじ)(曹洞宗)が建立されました。建立発起人総代は伊藤とも交流の深かった韓相龍(ハン・サンヨン)でした。韓氏は「朝鮮の渋沢栄一」の異名をもつ大財界人で、漢城銀行の創始者の一人です。また建立に際しては半島市民から少なからぬ金額の浄財があったと伝わっています。
1939年(昭和14年)10月15日、その博文寺で行われた30周忌の法要で、伊藤博文の長男・文吉と安重根の息子・安俊生の劇的な対面が実現しました。俊生氏は上海に住んでいましたが、親日団体の察団『満鮮使節団』の一員として一時帰国していたのです。
《亡父の贖罪は報国の誠で/伊藤公霊前に額づく運命の子・安俊生君》《秋深き博文寺に祀る空安重根霊位/仏門の恵みに結ぶ内鮮一体》
これは、俊生氏の博文寺参拝を報じた当時の「京城日報」(10月16日付)の見出しです。法要の祭壇には伊藤ばかりが安重根の位牌、写真が並べられ、文吉氏が博文だけではなく、父を殺した安重根の位牌にも手を合わせ焼香をするのを見て、安俊生氏は感極まって号泣したといいます。翌日、二人は朝鮮ホテルで会談、正式な和解がなされました。
この対面に政治的な演出を感じるという人もいることでしょう。しかし、古今東西、和解、手打ちというものには、"演出"はつき物なのです。何よりも、対面は、親の罪は子に及ばないという確認の儀式でもあったのです。
韓国でいうところの光復後、博文寺は韓国政府の管理下に置かれ、その後、三星(サムスン)財閥に買い取られて現在跡地には新羅ホテル迎賓館が建っており、寺院を偲ぶものは何も残ってはいませんが、同寺は取り壊されるその一瞬まで、伊藤博文と安重根の霊を祭る寺としてソウルの南山に存在していたことはここに記す価値はあるかと思います。
これが戦前までの安重根の日本、そして韓国の評判の実態でした。安が独立運動の義士、英雄と奉られるのは実は光復後のことですが、それにしても過大に過ぎる評価といえます。繰り返しになりますが、この韓国民の肥大した安重根像は、日本における、ある種の安重根擁護論と無縁ではないというのが私の見解です。
「日本人も尊敬している安重根」→「罪深い日本人さえ安重根の正論を認めざるをえなかった」→「安重根の行動は正義に違いない」という論法の飛躍があったということは充分考えられます。そしていつしか安重根は「東洋平和を願って悪の日帝と戦った韓民族が誇る英雄」、伊藤博文は「アジア侵略を無目論む日本帝国主義の首魁」といった、およそ正反対の評価に変質してしまったのでした。戦後、韓国では映画にドラマにと、それこそ日本における『忠臣蔵』のように、安重根の"義挙"が何度となく映像化されてきましたが、そういったフィクションの数々も安の偶像化に一役買ったことでしょう。
「罪を憎んで人を憎まず」と「敵ながら天晴れ」
日本人は「罪を憎んで人を憎まず」という言葉が大好きです。たとえ罪人であっても、その人柄や動機の純粋性については別の評価があってしかるべきという考えがあるのです。そのために、ときに犯罪者に必要以上に感情移入してしまうこともあるようで、とりわけ韓国絡みの事件ではこの傾向が強くなります。たとえば、1958年(昭和33年)の小松川高校事件、1968年(昭和43年)の金嬉老事件、いずれも凶悪な殺人事件でしたが、犯人が在日韓国人ということで、いつしか民族差別問題に論点がすり替えられ、犯人への同情論ばかりが耳目を引くようになりました。
金嬉老の事件は単に借金トラブルによる消費者金融業者殺害であり、小松川高校事件の李珍宇にいたっては、強姦目的で同級生を殺害、学校の屋上に死体を遺棄したという異常性欲者に過ぎません。差別、貧困、といったマスコミ好みのお決まりのキーワードが事実を曇らせてしまったのです。
また、日本人は「敵ながら天晴れ」という言葉もよく口にしたがります。
以下に紹介するのは、日本最古の軍歌といわれる『抜刀隊』(陸軍分列行進曲)の歌詞です。作詞は外山正一。
我は官軍わが敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大將たる者は 古今無雙(双)の英雄で
之に従ふ兵(つわもの)は 共に慓悍(ひょうかん)決死の士
鬼神に恥ぬ勇あるも 天の許さぬ叛逆を
起しゝ者は昔より 榮えし例(ためし)あらざるぞ
敵の亡ぶるそれまでは 進めや進め諸共に
敵の亡ぶる夫迄(それまで)は 進めや進め諸共に
玉ちる劔(つるぎ)拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし
詞が音節に合っていないないところがあって正直残念なのですが、それはさておきます。
敵の大将とあるのは、西郷隆盛を指します。この歌は西南戦争における田原坂の戦いを歌ったものだそうですが、まず「古今無双の英雄」「剽悍決死の士」「勇あるも」と最大限の言葉でもって敵を褒め称えてみせるのが、いかにも日本的かもしれません。敵を褒める軍歌というのは、古今東西においても珍しいのではないでしょうか。
私事で恐縮ですが、東京・上野の産である私は、上野の山にある西郷さんの銅像には幼なじみにも似た親しみを感じます。西郷さんの銅像の後ろにあるのは、彰義隊士の墓です。江戸幕府の残党として上野山に立てこもった彰義隊を壊滅に追い込んだのは新政府軍の西郷隆盛でした。その西郷も西南戦争で朝敵の汚名を受けることになるのだから運命の皮肉といえます。しかし、歴史は西郷や彰義隊を、天皇に仇なす「悪」と断罪していません。彼らは彼らなりに日本という国を憂えてやむにやまれず行動に出たのであることを日本人は理解しているのです。朝敵とは、即ち、朝(政府)に弓を引く者であって、天皇に弓を引く者ではないのです。戊辰戦争での会津藩もむろんしかりで、彼らが「悪」であるならば、白虎隊の物語がここまで熱く現代に語り継がれるはずもありません。
日本の歴史に絶対的悪は存在しないのです。正真正銘の朝敵である平将門でさえ明神として祀るのがこの国のメンタリティといえば、説明がつくでしょうか。
李完用は売国奴か
しかし、韓国ではまったく事情が違います。万物を語るのは、正か邪、正義か悪、上位か下位、黒か白か、被害者か加害者か、の二元論でしかないのです。日本人からすれば、韓国人のこうした原理原則論は、不寛容で融通の利かない頑迷な思考のように見えますが、反対に韓国人から見れば、「黒であり同時に白でもある」という日本人的な視点は、曖昧で責任の所在をはっきりさせない欺瞞的な態度の表れと映るようです。韓国人にとって「悪」は悪であって、そこに情状の酌量が入り込む隙間はありません。与えてはいけないのです。
したがって、日韓併合条約を調印(1910)をした、大韓帝国時代の内閣総理大臣・、李完用は現在では呪詛の対象としてのみその名が歴史に刻まれ、それ以外の評価は許されません。そして李は、戦後、ひ孫によってその墓が打ち暴かれ、安眠の地さえ奪われてます。墓を暴く、遺体を辱める、という行為は中国、朝鮮の儒教社会において、最高の恨みの晴らし方、復讐の手段です。併合時代を全否定する戦後韓国の同調圧力は、子孫の手でそれをさせたのです。
では、李完用は果たして国の滅亡を願っていたのでしょうか。彼のやったことは私欲のために、国を売ったことなのでしょうか。断じて否です。彼らが李朝500年の惰眠から目覚めたとき、既に朝鮮は亡国の淵にありました。日本の保護下に入る、それが唯一、大韓(朝鮮)と韓民族を地上に残す方法であり、李らが取った行動は苦渋の決断だったのです。その亡国の原因のひとつとなったのは、後編で述べる閔妃の存在でした。ちなみに李完用は終生、日本語を学ぼうとはせず、日本語で話しかけられてもこれを無視し、必要にせまられた場合は英語を使って日本の官僚と会話したという逸話も残るほどの民族意識の強い人物だったといわれています。「罪を憎んで人を憎まず」「敵ながら天晴れ」といった武士道にも通じる情の機微を現代の韓国人に理解してもらうのはまず不可能なことと諦めるしかありません。
日韓の合作による安重根像
「日本で安重根を評価する声がある」ということは、「1にも2にも安重根は正義」であり、「日本人は安重根の名において、その正義を突きつけられることを怖れている」→「安重根こそは歴史的妄言を繰り返す日本人にとっての弱点そのものである」という具合に彼らの思考のベクトルは向かうようです。つまり、「安のやったことは正しくはないが、その思いはわかる」という理解の仕方は、彼らの思考のプログラミングにはないということになります。
安易に韓国人に謝罪すると半永久的に謝罪を繰り返させられるということは既に述べましたが、特定の韓国人を安易に褒めることもまた、彼らの尊大で誇大的な態度を増長させる結果をまねくことになります。昨今の韓流ブームの際の、あたかも日本の女性のすべてが韓国タレントの魅力に陥落したかのような、韓国マスコミの上から目線の報道ぶりを見てもそれは容易に理解できるのです。彼らにお世辞も皮肉も謙譲の美徳も社交辞令も通用しません。ある意味では非常にストレートでシンプルな思考回路であるといえます。
韓国における安重根の英雄化、聖人化は、戦後になって進められたものであり、そこには日本人の安重根観が多分に影響しているという私の主張はご理解いただけたかと思います。つまり、「義士・安重根」像は韓国と日本の合作だったともいえるのです。さらにいうのなら、韓国では抗日英雄でさえ日本というフィルターを通してしか創造することができなかったということになります。
そういえば、金嬉老も釈放後、「差別と戦った民族英雄」として韓国に迎えられ、政府の補助のもと悠々自適の生活を送っているという報は日本にも届きました。むろん、「差別と戦った」というのは多分に日本のマスコミによって作られたイメージです。その金嬉老が帰国後の祖国で何をやったかといえば、姦通と殺人未遂、それに放火という重犯罪でした。
明治期に再評価された李瞬臣
韓国で安重根と並ぶ超級クラスの抗日民族英雄といえば、「文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率いて秀吉軍を返り討ちにした」と伝説化されている李瞬臣将軍の名が浮かびます。釜山市には日本の方角を睨む形で巨大な李瞬臣の銅像が建っており、また近年ではサッカーの日韓戦では韓国側の観客スタンドに安重根と共に李瞬臣の肖像画が描かれた横断幕が翻るのが恒例となっているようです。安重根同様、李瞬臣も映像作品などを通して虚実ないまぜの英雄像がいつの間にか定着して今日にいたっています。何年か前ですが、韓国の研究家が、李瞬臣水軍の亀甲船の実物大モデルを復元し海に浮かべたところ、またたく間に沈んでしまったのには哀れさを感じたものです。
実はこの李瞬臣将軍、朝鮮では近代になるまですっかりと忘れられた存在でした。彼の再評価が起きたのは、明治のころの日本だったのです。李瞬臣の名は、それを遡る江戸時代の戦争講談本『朝鮮太平記』、『朝鮮征伐記』などに鋼鉄の敵将として登場しています。、これらに描かれる李将軍は堂々たる巨躯の持ち主で、日本軍の鉄砲の弾を腕に受けても平然としている怪人です。敵を強大に描くのは、いわゆる劇画的効果を狙ったものだと思われますが、それが後世の李瞬臣像に多大な影響を与えたのは想像に難くありません。
明治期になって征韓論から併合にいたるまでの過程で、一種の朝鮮ブームのようなものがありました。それに合わせて講談本からの豪傑将軍・李瞬臣の発掘がなされたわけです。併合にあたって、日本人は韓国人を蔑視するどころか、わざわざ韓国人が誇れる"英雄"を掘り起こして、自国民にも「敵ながらあっぱれ」と言わせているのです。また、東郷平八郎が尊敬する軍人として李瞬臣将軍の名を挙げ、日本海海戦の戦勝を彼の霊前に祈ったという都市伝説もまことしやかに広がって、韓国人の自尊心をいやが上にでも刺激しました。現在の韓国で語られる李瞬臣のヒーロー・イメージはそれらを逆輸入し、さらに幾重もの潤色がほどこされたものと考えていいでしょう。こちらも安重根同様、「日本人が一目置く李瞬臣将軍」がまず先にありきのウリナラ英雄だったのです。
思えば、安重根も李瞬臣も、そしてあるいは金嬉老も、韓流ブーム以前の韓流スターだったといえるのかもしれません。まず、日本で売り出し、「日本で大人気」という錦の御旗を掲げ凱旋帰国、その余力を借りて市場を世界へと拡大する、プロモート戦略のモデリングとして彼ら先人たちを参考にしているのでしたら、韓国芸能界もなかなかおそるべし、といえましょうか。
(初出)
ただし、単行本収録は短縮版。本稿が、完全版です。