僕の語っておきたい下北沢⑯~ドラえもんとシモキタ遊技場事情
先日亡くなった大山のぶ代さんを下北沢で2回ほどお見掛けしたことがある。いずれの場所も南口にあったラスベガスというゲームセンターで、大山さんはマネージャーらしき若い男性とインベーダー系のテーブルゲームに興じられていた。
ビーム砲台がインベーダーに撃沈されるたびに、あの声で、「あー、やられちゃたー」などとつぶやくので、周りの客が一斉に彼女の方を見るのがなんともおかしかった。だからといって、場所もわきまえずサインをねだるような野暮な者もいない。そこがシモキタらしいともいえた。
大山氏がご近所であるという話も聞いたことないので、たぶん、2回とも芝居を観に来たついでに立ち寄ったものだったのだろう。とても面倒見のいい人で、友人や後輩の芝居があると必ず一度は観に行くという話もどこかで読んだ。
このラスベガス、2階もあって、ゲーム者はジュース類がタダ、かつ丼が300円が食べられたと記憶している。ゲームをせずかつ丼だけ注文すると、オヤジに「ゲームしてからにしろ」と怒られる。友人のK君なんか、コントローラをかちゃかちゃ動かし、いかにもゲームをやっているフリして堂々と300円かつ丼を食べていたが、僕にはあの芸当はできそうもなかった。
ラスベガスはもともとパチンコ店で、ゲームセンターに転身し、そこそこ繁盛していたようだが、今世紀に入って廃業してしまった。近年、大衆のパチンコ離れも著しいようだが、ゲームの世界もオンラインゲームに押されアーケードゲームは淘汰の時代に入っているのかもしれない。
僕自身はパチンコとはほとんどやらない。昔パチンコ好きの女と付き合っていた関係で少しやったこともあったが、もとより博才も勝負度胸とも無縁な男、3000円も勝てば大喜び、1000円負ければ店を出る程度のもので、大やけどはせずに済んだ。ハネモノが隆盛を過ぎ、フィバー台が出回り始めたころの話である。パチスロはまだまだマイナーだった。
同じく南口には、ゴールデンというゲームセンターとその向いに富士という同系列のパチンコ屋があったが、この両店も今はない。ゴールデンは、タレント小池栄子氏の実家ということで知られている。
実家がパチンコ店ということで、小池氏が在日韓国人ではないかという噂がネットで拡散しているが、真実かどうかは定かではない。小池氏が少女時代を回想したエピソードで面白いものがある。祝日には実家の店の入り口には当たり前のように日章旗が掲げていたのに、近所の他店にはそれがないことに憤慨した小学生の彼女はわざわざその店に乗り込んで、「非国民!」とやったそうである。このエピソード自体が先の噂を全否定する材料とはなりえないかもしれないが、なかなか豪快な話だと思う。
他に下北沢の有名パチンコ店といえばミナミがあったが、ここも廃業してしまった。オーナーの南さんは、本多劇場、スズナリ劇場のオーナーである本多さんと並ぶ下北沢の大地主で、パチンコ店の他にサウナやカプセルホテルなど手広く経営している。
彼に関してはどうやら、在日らしい。南と書いて民族名はナムさんだという。というのも、僕が下北沢に住んでいた一時期、日曜ともなれば、右翼の街宣車が街を流しスピーカーから「南社長は朝鮮人で、戦後のどさくさに~」云々とがなり立てていたからである。態のいいいやがらせだ。右翼といっても政治団体の衣を被った任侠組織である。
なぜ、このようないやがらせが続いていたかというと、当然ながら理由がある。パチンコ店と景品交換所、つまり換金システムには反社勢力の介入を招きやすい。暴力団追放キャンペーン盛んな時期でもあって、パチンコと反社組織の癒着を断ち切り、遊戯業界のイメージアップを図るべく、組合が動いたがその先頭に立っていたのが南社長だったのだ。当然、反社組織からすれば、ガマンならぬわけでである。改めて調べたら、91年ごろの話のようだ。信じられないかもしれないが、本多劇場の隣のビルの3階に堂々と組の代紋が掲げられていた時代である。また、わがアパルトマン銀紙楼の隣の広島お好み焼き屋の気のいいオヤジが、実は山口組の企業舎弟だという話。これはシモキタの生き字引・吉備不動産のおばちゃんから聞いた。
ミナミと暴力団の抗争(?)がその後どうなったかは不明だ。ある時を境にぴたりと街宣車を見かけなくなったのである。おそらくは、カネで解決したのであろう。