心中動画を見て~日韓併合時代と同性愛ブーム
JK二人の間に何があったか
ツイッターのトレンド入りしていた自殺動画を見た。正確にいえば、心中動画である。
女子高生らしい制服を着た少女二人(といっても一人は手しか映っていながいが)が、手を握り合い、「せーの」で、後ろ向きにビルの屋上らしきところから飛び込む。数秒おいて、バンという音。ふたりの体がアスファルトに叩きつけられた音である。最初は手の込んだ「作り」かと思ったら、どうやら本物らしい。
飛び込みの様子は、スマホを固定して撮られている。片方の女の子のものだろう。もう片方、「せーの」の女の子の手にスマホが握られているから、こちらのスマホは、落下の一部始終を自殺者の視線で捉えているはずである。さすがにこちらの動画はUPされていない。
この二人、死の旅立ちをともにするということから見ても単なる友達以上の間柄であったことは容易に想像がつく。それ以上の憶測は、現時点では慎んでおこう。
三原山を自殺名所にした女学生
同性愛女性の心中事件ということで、真っ先に思い出されるのは、1933年(昭和8年)2月の実践女学校生徒2人による伊豆大島三原山噴火口飛び込み事件である。しかし、このケースでは、片方が死にきれず救助されたために、厳密にいえば「心中」ではない。一説によれば、片方は最初から友の死を見届けるだけの約束だったともいわれる。
とはいえ、この事件がきっかけになり、三原山はすっかり自殺の名所となってしまったという。また、戦前のこの手の事件にありがちなメディアの感傷的・情緒的報道が、自殺熱を煽ったのも確かである。それにしても燃え盛る溶岩へのダイブは、一瞬にして骨まで溶かすというから、僕などはとうてい怖くてできまい。中には途中の岩盤の裂け目に引っかかって未遂に終わるケースもあるが、その場合は救助するほうも命がけだろう。
令嬢と上流夫人の鉄道心中
三原山心中の2年前の1931年(昭和6年)4月には、名家の令嬢と上流夫人が手を固く結び合い、鉄道に飛び込むという正真正銘の同性愛心中事件が起こっている。ただし、内地でなく、当時日本統治下にあった朝鮮京城での話。
心中劇のふたりの主役のうち、ひとりは、医学博士・洪錫厚(ホン・チュソク)の娘・洪玉任(ホン・オギョム)21歳。ちなみに洪玉任の叔父は、『鳳仙花』の作曲者として知られる音楽家の洪蘭坡(こう・らんは/ホン・ナンパ)である。もうひとりは大手出版社社長を父にもつ金栄珠(キム・ヨンジュ)19歳で、栄珠は心中当時、予備飛行士・沈錫盆(シム・チュソク)の夫人であった。二人は女学校時代のルームメイトで、いわゆる同性愛の関係にあったという。望まぬ結婚生活に悩みを抱える栄珠に玉任が同情、せめて来世で固く結ばれようとの、死出の旅だった。
この事件をもっとも熱心に取り上げたのは朝鮮日報で、「鉄路の露となった二輪の勿忘草」という感傷的なタイトルで、5回にわたって特集記事を組んでいる。記事の中で何人かの識者の声を拾っているので紹介すると、たとえば、淑明女子高校教師の金永煥(キム・ヨンファン)は「ふたりの死は自己中心的」と斬って捨てたかと思えば、梨花女子堂の金永煥(キム・チャンジェ)は「賛美はできないが、一方的な攻撃は間違っている」と一定の同情を示している。当時、内地でも女学生の間では疑似も含む女子の同性愛関係をエス(sisterが語源といわれている)と呼んで、特段異常視することもなかった。LGBTなんて言葉なんてなかった戦前の方がむしろ同性愛には寛容かつオープンな雰囲気があったのである。
朝鮮近代文学の父と呼ばれる李光洙(イ・グァンス)の妻で、女医・女性活動家(フェミニスト)の許英肅(ホ・ヨンスク)によれば、「女学校に身を置いた女子で、同性愛の経験がなかった人を探すほうが困難ではないか」(『別乾坤』1930年11月号)といっている。
洪玉任と金栄珠の鉄道心中の翌月の1931年5月5日付の朝鮮日報には、李蘇吉(イ・ソンギル)と金炳星(キム・ビョンソン)という、ともに二十歳のゲイのカップルが安東縣錦江の公園で服毒心中したという事件が報じられている。服毒に使われたのは阿片だという。
内地でも旧制高校の生徒は、お稚児さんを連れて歩くのが当たり前で、本来「硬派」とはそういう連中を呼んだのである(逆にカフェなどに入りびたって女給の尻を追っかけるのを「軟派」といった)。
朝鮮の女性解放運動も同性愛や心中の流行も、内地留学組が半島に持ち込んだものである。時代は大正デモクラシーのエロ・グロ・ナンセンスの空気にどっぷりつかっていた。よくも悪くも時代の爛熟にあった。
日本にも外国かぶれがいるように、当時のトッポい朝鮮インテリ青年たちは、内地にかぶれた。日本が彼らの言葉を奪った? トンデモナイ。彼らが好んで日本語や英語まじりのキテレツな朝鮮語を操ったのである。
併合から20年、半島もようやく時代の爛熟を迎えつつあったのか。同性愛と心中はその象徴である。
さて、令和の世は爛熟にあるのだろうか。