青い燕・朴敬元と爆音の天女たち(前編)
(はじめに)
3月5日、いざ熱海へ。男4人の気の置けない一泊ドライブ旅行である。目的は松井石根大将ゆかりの興亜観音への参拝だが、僕はもうひとつ心に秘めたものがあった。箱根から熱海へと近づくにしたがい、つらなる山々が迫ってくる。「ゲンダケってどの山かわかる?」。仲間に聞いてもみんな首をかしげる。スマホで検索しても出てこない。仕方がない、あの山々のどれかがゲンダケなのだろうと思い、車中一人、手を合わせた。
朴敬元が激突墜落した玄岳は「ゲンダケ」でなく「クロダケ」であることを知ったのは、宿についてからだった。拝んだ方向も微妙に違っていたかもしれない。無知に加え地理音痴ゆえのおそまつ。天の朴敬元女史よ、笑って許してほしい。
ここに投稿するのは、『こんなに明るかった朝鮮支配』(ビジネス社)に収録した同名の記事の完全版(収録したものは尺の関係で短縮したもの)である。
(リード)
金髪の飛行士、男装の麗人、反骨の女性記者……日本の航空史を飾る個性豊かな天翔ける乙女たち。その中心に一人の朝鮮人女性がいた。
朝鮮人女性パイロット第一号
朝鮮の女性パイロット第一号といえば、権基玉(クゥオン・キオク)ということになるが、彼女は亡命者であり、厳密にいえば中華民国国民軍のパイロットである。併合時代の朝鮮出身の女性民間パイロット第一号となれば、やはり女鳥人・朴敬元(ぼく・けいげん/パク・ギョンウォン)の名を挙げるべきだろう。
現在、朴敬元と聞いてすぐにピンとくる日本人は航空史マニアか筆者のような好事家くらいのものかもしれない。事情は韓国も同じで、2005年(平成17年)に、彼女をモデルにした映画『青燕』が作られるまで一般にその名を語られることもなったようだ。なぜその存在が歴史に埋もれかかってしまったかといえば、日満親善皇軍慰問飛行という国策行事に乗っかった彼女の「親日行為」に、韓国の為政者たちが苦慮したためと思われる。映画が公開されたときも彼女を「親日派」として糾弾する声が一部マスコミから上がり、観賞ボイコット運動にまで発展したという。ちなみに、「朴敬元は、歴史的原罪を犯した女だが、夢をつかむために駆けぬけた」とは『青燕』の監督ユン・ジュンチャンの弁である。
朴敬元は1901年、大邱に生まれている。彼女もアート・スミスの曲芸飛行に魅せられて大空を夢見た新時代人だった。敬元の父は家具職人、一説によれば、母は奴婢階級の出だったという。看護婦、タクシー運転手などで資金を貯め、1925年(大正14年)に立川の日本飛行学校分校に入校し、1927年(昭和2年)に三等操縦士、1928年(昭和3年)に二等飛行士の資格を収得している。168センチという体躯は当時の女性としては長身の部類に入るだろう。
もちろん、彼女ひとりの力で学費をまかなえるわけがなく、東亜日報社の後援と「半島から女性飛行士を」という呼びかけで朝鮮全土から集まった浄財あればこそである。内地での支援者の筆頭は時の逓信大臣・小泉又次郎だった。背中に入れ墨を背負っていたことからついたあだ名が「入れ墨大臣」。いうまでもなく小泉純一郎元総理大臣の祖父である。逓信大臣がなぜ女性パイロットのスポンサーになったかといえば、これからの郵便事業に航空機の存在は欠かせないという判断からであろう。また、横須賀の侠客だった又次郎は、湾岸土木労働者の手配師なども兼ねており、沖中士として多くの朝鮮人を抱えていて半島とも縁が深かった。小泉首相の訪朝の実現には、この祖父以来の朝鮮人脈が裏のパイプとなったのではないかと筆者は思うのだが、これは余談。映画のタイトルにもなった青い燕は、朝鮮で幸運のシンボルとされ、敬元が愛機につけた名であるが、この中古のサルムソン機(フランス製)を陸軍から払い下げる手はずを整えてくれたのは又次郎だった。
わが女流飛行家たちよ
飛行士になることに半島人であるハンディはまったくなかった。現に安昌男をはじめ数多くの半島人パイロットが登場しているし、敬元のすぐ下にも後述する李貞喜(り・ていき/イ・ジョンヒ)という後輩が育っていた。ハンディがあるとすれば、それは女性ということにつきたのである。当時、女性は二等操縦士までで職業飛行士である一等操縦士の資格は収得できなかった。また、戦争中は女性の飛行は禁じられていた。なによりも、「女だてらに飛行機乗りに」「お嬢さんの過ぎたる道楽」という空気が一般には支配的だったことは容易に想像がつく。そのような世間の好奇の目に耐えられず、日本人女性飛行士第一号である兵頭精(ただし)は免許収得後一年で操縦桿を手放している。敬元のはるか後輩になる及位ヤヱは第一航空学校時代、ヤヱという名を「野位」と当て字し、女性であることを極力周囲に意識させないようにしていたという。
敬元は1931年(昭和6年)、『わが女流飛行家はなぜ伸展しないのか』(「航空時代」6月号)という寄稿文で、日本社会の女性パイロット軽視の姿勢をこう嘆いてみせた。
《わが航空界にもブルース夫人のような女性があって欲しい。しかしわたしはブルース夫人一人褒めるよりもむしろ英国の一般社会の人々を褒めたいのです。ブルース夫人がロンドンから東京まで飛行したことは英国の一般社会が援助したからこそ飛べたのです。わが航空界の如く、女流の存在を認めなかったなら決して飛べるはずはありません。わたしは今日まで男の中にたちまじって、全身全力を捧げて汗と油で研きあげてきました。わたしはどうしてこのまま辞められようか? これからはどこまでも自分の目的を達するまで、また自分の命の続くかぎり、最後まで頑張っていく決心です。》
さらに敬元は「練習するのには一分間二円、一時間に百二十円という練習費を要する」と具体的な数字を挙げ(大卒初任給75円の時代)、《それだけの練習費をも顧みずして進んで飛行家になった女流が今までに幾人がいたことは申すまでもないが、さてそれならそれまでせっかく営々勉励して獲得した手腕を彼女たちはいかに利用したか。》と問い、結局は将来に展望を見いだせず、多くの女性人材が航空界から去らざるをえないと訴えているのだ。女性の社会進出も始まったばかりのこの時代、女性パイロットは最先端、いや超先端の職業婦人であるべきはずだった。しかし、超先端ゆえに社会からは職業として認知されなかったということだろうか。それにしても力強い、知性のある文章だと思う。彼女のこの一文に、内地人、半島人といったケチな民族セクショナリズムの入り込む隙はない。内地人でも半島人でもない一人の「日本の女性」として、大空を目指そうとする後輩たちの未来を慮る心があるばかりである。
青い鳥と青燕
ブルース夫人とあるのは、「空の女王」と異名を取るイギリスの女性飛行家・メアリー・ヴィクター・ブルースのこと。少女時代からのモーターサイクル狂が高じ、カーレーサーとしてデビュー、数々の実績を残しながらパイロットに転じたというアクティブな女性で、ある。
夫人は1930年(昭和5年)9月25日、クロイドン飛行場を飛び立ち約3か月かけて東京までの単独飛行を成功させている(12月5日到着)。女性としては初の快挙である。そのとき、日本代表として羽田で歓迎飛行を行ったのが他ならぬ朴敬元であった。敬元の飛行に感激したブルース夫人は歓迎式で、「今度はあなたの番よ。日本から英国への最初の飛行はきっとあなたでしょう。そのときは私が歓迎飛行をさせていただくわ」と言って固く彼女の手を握ったという。ブルース夫人のこの言葉は朴敬元の心に深く突き刺さった。そして、いつか自分の操縦する飛行機で海を越えるのだ、との思いを強くしたことだろう。
敬元の論文はブルース夫人との出会いに後押しされたものであるのはいうまでもない。そして敬元はこうも書いている。
《(日本の航空界が女性飛行士を重要視していたら)外国の女流飛行家よりもっともっと先に欧亜諸国を訪問していたに違いない。わが女流飛行家たちは、ブルース夫人が日本へ訪問されたという新聞記事に目を通して、どんなに残念に思っていることか。》
なんたる自信だろう。そして、日本の女流飛行家はそれだけの素質をもっているといいたけだ。
ちなみにブルース夫人の愛機はブルーバード号、幸せの青い鳥――敬元の青燕の命名はこれにならったものかもしれない。
敬元、非業の死
敬元の思いが届いたのか、チャンスは意外に早く訪れた。1933年(昭和8年)、先にも記した日満朝親善の記念飛行のパイロットとして彼女に白羽の矢が立ったのである。目的地は英国ではなく満州であったが、海を越えることに違いはない。むろん女性の海峡横断単独飛行は国内初の挑戦となる。常に男と伍して「忍苦」(敬元はこの言葉を好んだ)の中で精進してきた敬元にとって、それは重責であること以上に輝ける栄誉であった。何よりもうれしいのは、中継地に京城が予定されていることだ。母国の空を飛ぶ――。敬元の瞼に汝矣島の飛行場で同胞たちの振る歓迎の小旗の波が浮かんでくる。
8月7日朝、羽田飛行場、新調した飛行帽と飛行服に身を包み、唇に薄く紅を引いた朴敬元は、既に逓信大臣の職を辞した小泉又次郎をはじめ見送りの人々に、もともとの丸顔をますますまん丸にした満面の笑みで応え、いざいかん青燕のコクピットの人となった。
向かうのは最初の中継地・大阪である。翌8日は大阪を経って大刀洗(福岡)、そして9日はいよいよ京城の空を飛ぶ予定だった。ところが、彼女が飛び立って約40分後の11時17分、箱根付近でエンジン音が確認されたのを最後に青燕は消息を絶ってしまうのである。翌7日朝8時ごろ、静岡県田方郡多賀村玄ケ獄山中で無残にも二つに折れた青燕の機体と操縦席の中で朝露に濡れ冷たくなった朴敬元の遺体が発見された。血に染まった懐中時計は午前11時25分30秒を指したまま止まっていたという。当日、箱根から伊豆にかけて濃霧が発生しており、目算を誤り山の中に激突したものと思われる。享年32。
後編に続きます。
『こんなに明るかった朝鮮支配』(ビジネス社)
(追記)
日本の女性パイロット第一号は兵頭清と書いたが、実はそれ以前、大正6年、18歳で日本飛行学校の第一期生として合格、練習飛行ながら大空を飛んだ女性がいた。上野艶子である。彼女こそ幻の女子パイロット第一号といえるかもしれない。結局、彼女は飛行免許を修得しなかったようである。
日本飛行学校は、相羽有(あいばたもつ)を校長、玉井清太郎を教官に大正5年、東京羽田に開校。これが羽田と航空機の関わりのはじまりでもあった。飛行学校開校を聞くや、誰よりも早く入学を志願したのが、当時16歳の円谷英二(本名・英一)である。英二は月刊誌『飛行界』の愛読者で、同誌の発行人である相羽とは文通をする仲だった。さっそく手紙で入学を直訴、前払い入学金一括600円(新築の家が2軒建った金額)をもって上京。みごと入学を果たした。同じく、第一期生に募集したのは、英二より一年年長の稲垣足穂。しかし、足穂は強度の近眼だったため、視力検査で落とされている。
飛行訓練に男も女もない。となれば、円谷英二と上野艶子は同期、クラスメイトだった可能性も高い。
しかし、英二たちが入学して約半年後の5月20日、玉井教官を乗せた自作機(エンジンはフランス製)、帝都訪問飛行に飛び立った1時間半後に不調をきたして墜落炎上、同乗していたカメラマンとともに玉井は死去してしまうのである。唯一の教官と実機を失った飛行学校は閉校を余儀なくされ、円谷の飛行機乗りの夢も一時とん挫した。おそらく上野艶子も同様に、パイロットへの道を塞がれてしまったのだろう。
玉井は元軍人で第一次大戦時に青島攻略戦に参加している。同攻略戦は日本の陸海軍が初めて本格的に航空機を導入して戦果を挙げた記念すべき戦闘であることが知られている。円谷英二はのちに同攻略戦を描いた映画『青島要塞爆撃命令』(63)の特撮を担当したが、かつての恩師・玉井清太郎を想い、万感くるものがあったであったのではないかと察する。
朴敬元が通った日本飛行学校は、旧飛行学校の校長だった相羽有が後年、立川の地に再建したもの。相羽の朴敬元の印象は、「いつも可愛らしい洋服を着て」「無口でやや社交性に欠ける」シャイな性格だったようだ。
その彼女が、初対面の席で「新聞は女流飛行士のことをコンパクト・パイロット(お化粧した飛行士)と面白おかしく書き立てますが、そのようなことでは航空界の発展はありません」と堂々と発言、小泉逓信大臣を感服させたり、日満飛行を成功させるため、じきじきに満洲に乗り込み関東軍司令部の幹部に協力を約束させるなど、のアクティブな女性に生まれ変わるのだから面白い。彼女を突き動かすのは、なにより航空界の発展と女性パイロットの認知を、という使命感である。