国家主義と民族主義(後編)
ロス暴動の引き金となった韓国系移民の横暴
しかし、移民先での韓国人の評判はあまり芳しいものではありません。彼らは自分たちだけのコミュニティを作り、現地の住民となじもうとしないからです。他のエスニック、とりわけ黒人層との軋轢はアメリカでも社会問題になっています。また韓国人は一様に自己主張が強く、集団になるとそれが限りなく増幅される傾向にあります。2014年1月、韓国系住民が増加の一途をたどる米ニューヨーク市クイーンズ区のマクドナルドの店舗で、長時間にわたって店内に居座った高齢の韓国系住民6人に業を煮やしたマネージャーが警察に通報して退店を迫ったところ、在米韓国人社会がこれを「人種差別だ」と反発、不買運動を呼びかける騒ぎがありました。これに加担したNY州下院の韓国系議員の仲裁により、店側はマネージャーを降格、韓国系顧客のために韓国系の従業員をさらに1人雇用させることを約束させられました。韓国人サイドは自分たちわがままを押し通した上に、ちゃっかり雇用まで確保したことになるのです。彼らの完全勝利といえます。おそらく、数年を待たずとしてこのマックは、店員のほとんどが韓国系となり、メニューも英語とハングルの併記となることでしょう。
このように、何かトラブルがあると「差別問題」「権利問題」に巧みにスライドさせ、コミュニティを総動員してのモンスター・クレームで騒ぎを拡大し、最後は韓国系弁護士や韓国系の議員を使って自分たちの主張を通すというのが彼らの常套手段です。こういった場面での彼らの結束力、団結力は驚くほど強固なものがあります。
80年代以降にアメリカに渡ってきた韓国系ニューカマーの多くは賃料の安い黒人街で商売を始めるケースが多かったのです。本来は後からきた韓国系移民が黒人地域社会に融合すべきなのですが、彼らは黒人を蔑視し、また商売上の競合関係にもありましたから、地域住民(黒人)とのトラブルが絶えませんでした。それらトラブルにも韓国系の弁護士が介入するのですが、黒人住民の多くは貧しく弁護士を雇うこともできないためいいようにあしらわれて泣き寝入りというパターンが多く、それがいっそう韓国系に対する憎悪へと繋がっていったといわれています。また韓国系住民は同胞の店を利用し、黒人の経営する店にお金を落とすことはありません。
1992年4月に米ロサンジェルスの黒人街で起こったいわゆるロス暴動では、多くの韓国系移民の経営する商店が焼き討ち、略奪に合いましたが、その背景には、こうした韓国系移民に対する黒人住民の長年の憤懣があったのです。それに火をつけたのが、91年3月に起こったラターシャ・ハーリンズ射殺事件でした。同地区に住む15歳の黒人少女ラターシャ・ハーリンズが、彼女を万引きと勘違いした韓国系アメリカ女性の商店主・斗順子(トウ・スンジャ)に背後から頭部を狙撃され即死したのです。同年11月、この事件の裁判で、女性店主下った判決は、保護観察処分と罰金500ドルという、殺人罪としては異例に軽い処分でした。これに、白人警官による黒人青年ロドニー・キングへの理不尽な暴行事件も加わり、黒人社会の怒りは沸点に達して一挙に暴動へと発展しました。ラッパーのアイス・キューブのBLACK KOREAという曲はこの事件を題材にしたものです。
反日は民族のアイデンティティ
さらに肝心なのは、祖国を捨て、どこの国の人間になろうと、彼らは決して反日というイデオロギー(?)だけは手放さないということです。ユダヤ人が地球上のどこの土地に根をおろしてもタルムードや律法(トーラ)を精神の拠りどころにする限り「ユダヤ人」であるように、韓国人にとって反日は「朝鮮民族」であることを自覚させてくれる民族の聖典でありアイデンティティなのです。カルフォルニア州のグレンデール州を初め、全米各地に建てられようとしている慰安婦少女像や石碑は、まさに、その証といえます。これらの反日モニュメント建立の背後に、韓国系プロテスタント教会を中心とするコミュニティや韓国系地方議員、あるいは彼らを票田とする地元政治家や首長の存在があるのはいうまでもありません。グレンデール市の総人口約20万人のうち、すでに韓国系の占める割合は約5%の1万2000人に達しているとのことです。既に一地方都市の市政を動かす勢力となっています。
アメリカの全州の中学で副読本として採用されていた、日系作家ヨーコ・カワシマ・ワトキンス女史の自伝的小説『竹林はるか遠く』(So Far from the Bamboo Grove)の教材使用禁止を求めて苛烈なロビー活動を繰り広げたのも彼ら在米韓国人および韓国系アメリカ人のグループです。
同作品は、「戦争の悲惨さを訴える」良質の資料として全米の推薦図書にも指定されていましたが、作中に、主人公(=作者)一家が朝鮮から内地へ引き揚げる際に目撃した、現地人による日本人殺害、日本人婦女子に対するレイプなどが描写されており、これを彼らが、「歴史歪曲」と騒ぎ立てたのです。これらの圧力を受けて、一部の地域では教材から取り除くなどの対応が行われました。また、この抗議活動の過程で、作者の父親が満洲に勤務していたことを根拠に、731部隊の幹部であったなどという根も葉もないデマまで喧伝されたのです(作者によると父親は満鉄職員だったそうです)。
在米韓国人のロビー活動はもう笑って見過ごすことのできないほどのレベルに達しています。在米韓国人一人一人が反日工作員であると思って差し支えありません。
世界中で、華僑がいるところ関帝廟があるように、韓国系移民いるところ慰安婦像が建つ、そんなゾっとするような時代はすぐそこまで来ようとしています。韓国人にとって反日は民族固有の信仰なのです。
対国家の日本と対民族の韓国
さて、ここで冒頭紹介した「歴史を忘れた民族に未来はない」という言葉をもう一度思い出してみてください。「国家」でもなく、「政府」でもなく、「民族」という言葉が用いられたことの怖ろしさが、改めて理解できるかと思います。
われわれ日本人は、慰安婦問題も竹島問題も、その他、日韓に横たわる諸問題は、すべて国家と国家の問題であると認識していますが、どうやら韓国人の認識はそれとはまったく違うようです。この認識のズレが、日本人をして彼らを見誤らせているといっても過言ではありません。
たとえば、併合時代の清算について日本の立場からすれば、日韓基本条約および日韓請求権協定で解決済みである上、歴代の首相がことあるごとに謝罪の言葉を述べているし、さまざまな名目でお金も払ってきた、なのになぜ韓国はいつも蒸し返してばかりなのだ、というところでしょう。それは過去清算なるものが国家間の問題であるという前提からくるものです。国家間の問題であるなら、なるほど条約で解決済みということになります。付け加えるなら、慰安婦問題や竹島問題にしても今はこじれているけれど、国家間の問題である以上、いつかは解決の道があるはずだと日本人は信じているのではないでしょうか。
しかし、韓国にとってそれらは、既に国家と国家の問題ではなく、民族と民族の問題に変質しているのです。対「日本国」でなく、対「日本民族」ということになります。ついでにいえば、韓国の反日は、反「日本国」でなく、反「日本民族」と翻訳されるべきと思います。
日本政府はこれまで、韓国から歴史問題等で難癖をつけられると、波風が立つのを避けて、とりあえず謝罪し、何がしらの金を払うことで沈静化を図ってきました。それがいかに事態をさらに悪化させてきたかを知らなければなりません。あの言いがかりにも等しい慰安婦問題にしても、100万歩譲って、彼らのいうとおりの「賠償金」を払ったところで決して円満解決ということにはならないのは明白です。なぜなら、補償、協定、条約、といったものはすべて国家と国家の間で交わされる取り決めであって、民族に対する恨(ハン)の氷解にはならないからです。
夫婦が離婚する場合、間に弁護士などを立て慰謝料や財産分与などの取り決めをし、合意のもとに夫婦関係を解消します。むろん、お互い言いたいことはあるでしょうが、一応はこれで水に流す、というのが大人のルールです。しかし、この韓国という元・妻は、「それはそれだけど…」「そんな法律上の決着で、愛した私の気持ち、受けた裏切りに対する恨みの念はまだ晴されることはない!」とかつての夫をなじり続けるのです。ではどうすれば気がすむのだ、と問えば、「この恨みは金銭には換算できない」という答えが返って来るだけでしょう。こういう論理的な会話のできない相手に、ヘタに飴玉をしゃぶらせるような、その場しのぎの対応は、憎しみの青白い炎に薪をくべるに等しいことです。それでいて、金銭の方もしっかり要求してくるのですから、たまったものではありません。
民族対立の先にあるのは虐殺
1978年、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相(共に当事)の歴史的な和平合意は、政治的なシェイクハンドでした。国家と国家による和平だったのです。しかし、アラブ民族主義者、イスラム原理主義者からすれば、サダトはとんだ裏切り者ということになります。その後の政策の失敗も重なって、結果的に彼はイスラム過激派によって暗殺されてしまうのです。
よく、ドイツとフランスは和解したのに、なぜ日本と韓国は上手くいかないのだという声を聞きますが、その答えもそこにあります。ドイツとフランスの間に過去あったのは国家と国家の戦争に他ならず、民族紛争ではありませんでした。だからこそ政治的な和解が可能だったのです。
国家間の戦争は必ず落しどころがあります。逆に言えば、武力による国家間の落しどころの探り合いが戦争であるというロジックも成立するかもしれません。戦争においては戦争目的をはっきり想定しておく必要があります。日清戦争での日本側の戦争目的と落しどころは一致していました。下関条約第一条に記された、朝鮮の清国からの独立です。一方、支那事変(日中戦争)は、戦争目的もないまま勃発し、不拡大の方針を掲げる日本は何度も落しどころを見つけようとしますが、結局はズルズルと戦線を拡大、気がつくと泥沼状態にいたのです。ここいらへんが戦争というものの難しさ、怖ろしさといえます。
民族間の紛争は基本的に落しどころというものがありません。損得、利害を超えた殺し合いです。ヨシュアの一団がカナンの地で行ったように「幼児から家畜までことごとく」皆殺しにしてようやく完了するのです。
中東、アフガン、印パ、ソマリア、いずれの民族紛争も現在は小康状態こそ保っていますが、いつまた発火するかわかりません。そして一度火がつけば、大国の介入などの何がしらの制御がなければ、相手を皆殺しにするまで何十年、何百年と止まることはないでしょう。むろんここでいう「皆殺し」には「オスを殺し、メスを同化させる」という意味も含まれています。民族としてのY染色体の抹殺です。旧約聖書の時代には、これに加え、被征服者の男を去勢し奴隷として使役させるということも普通に行われていました。去勢はそもそも騎馬遊牧民の文化です。中国には北方の遊牧民によって伝えられ、やがて宦官の制度として定着しています。別章でも述べましたが、朝鮮半島は宦官の産地でもありました。
九族という言い方があります。自分を中心に祖先と子孫それぞれ4代(高祖、曽祖、祖父、父、自分、子、孫、曾孫、玄孫)合計9代の直系を言います。また、九族をまんま9親等と解釈し、母方の三親等,妻方の親族二親等をこれに加えるという説もあります。支那や朝鮮などの儒教的血族文化では、この九族という単位が特別な意味合いをもつのです。『三国志』など支那の古典には「恨み九族に及ぶ」とか「九族皆殺し」(族誅)といった言葉がごく自然に登場します。一族の根絶やしです。自分と父母、子孫はわかるとして、曾曾おじいさんあたりになるとさすがに殺したくても既に死んでいるだろうと思われるかもしれませんが、その場合は墓を暴いて遺体や骨を鞭打ちます。実は儒教社会において、相手の先祖の墓を暴き辱めることは最大最良の復讐の手段なのです。立場を替えて、墓を暴かれる側にとっては、ご先祖さまを穢されるという、これ以上ない屈辱になります。
韓国の立場からすれば、光復、つまり日帝支配の解放(1945年の終戦)から数えての9代ですから、私たちの子や孫の世代どころではありません。はるか未来の子孫まで彼らの復讐の対象なのです。
とはいえ、21世紀の現代、文明国を自認する韓国と日本の間で、こういった民族抹殺行為が実際に行われるとは思いませんし、むろんあってはならないことです。しかし、彼らがそのような目でわれわれを見ているという認識と覚悟は、脳裏の片隅に留めておいてよいでしょう。
日韓ともに文明国家であり国際社会の一員であるゆえに、民族の皆殺しが忌避されているということは、逆説的にいえば、文明国家という自覚と国際社会という制御がある限り、韓民族の日本民族に対する恨は決して解けることがないということを意味します。つまり、永遠に恨まれ続けるということです。
日韓の真の友好と和解を信じる人には、私のこの見解は、絶望的な響きがあるかも知れませんが、むしろ絶望することで、この不毛な日韓関係から精神的に解放されるチャンスにしたいものです。土壌のないところにいくら種を撒いても芽は出ないことを日本人はいい加減学習することです。
日本人に政治亡命者がいない理由
日本人は韓国人ほど民族主義をむき出しにしません。さりとて強烈な国家主義に傾くこともありません。「日本の偏狭なナショナリズム」などというフレーズは、単なるマスコミ用語に過ぎないのです。
その理由として、先にも述べた、翼賛体制時代にしても他国の全体主義と比べれば、まだまだ自由があったことを知っています。東条内閣の時代でさえ新聞は内閣批判の記事を掲載しました。果たして当時のドイツの新聞がヒトラー批判を、イタリアの新聞がムッソリーニ批判を書けたでしょうか。いや、21世紀の現在においても中国の新聞が習近平批判を、北朝鮮の新聞が金正恩の批判を果たして書けるのかといえば、私の言いたいことがおそらくご理解いただけるかと思います。日本には独裁政権はなかったのです。
日本人の国家への信頼感を表すいい例が、日本人の政治亡命者という存在が今も昔も皆無に近いという事実です。わずかな例外として挙げられるのは、昭和13年(1937年)、情人の演出家とともにソ連に逃避行した女優・岡田嘉子、昭和45年(1970年)、日航機よど号を乗っ取り北朝鮮に渡った田宮高麿ら赤軍派グループでしょうか。その彼らとて、石もて祖国を追われたわけではりません。行動に走らせたのは単なる社会主義に対する浅はかな幻想です。亡命後の彼らを待っていたのは、全体主義の悲惨な生活でした。第二次大戦中の政治亡命者といえば、野坂参三がいますが、彼の場合はコミンテルンの招きによる留学といった方が正しいでしょう。そして、やはりその末路は哀れなものといえました。一方、先の大戦時、同盟国であったドイツでは、アインシュタインらユダヤ系を初めとする大量のアメリカへの亡命者を出しています。ヒトラー嫌いで知られる女優のマレーネ・ディートリッヒもその一人です。
亡命ではありませんが、近年、中国共産党の幹部など、子弟を留学の名目で海外に送り込み、億単位の隠し財産をそれらの国に移して、いつでも逃げられる準備をしています。中華民族にとって国を捨てることなど、服を着替えるかのようなものです。韓国人の移民熱については先に触れた通りです。今、日本に60万人いるという在日韓国朝鮮人にしても、その一世のほとんどは、朝鮮戦争の戦禍を逃れ、あるいは経済的な理由から海を渡って日本にやってきた、事実上の難民たちでした。いわゆる強制連行は後年作られた神話に過ぎません。
少なくとも、国家(政府)は国民に銃を向けることはない、日本人はそう信じていますし実際そうだったのです。他のアジア諸国と比べてみればそれはよくわかります。ざっと見渡してみても、国民党政府による台湾の2・28事件、中共の文化大革命に天安門事件、カンボジアのクメール・ルージュによる虐殺と、独裁政権によって流されたおびただしい無辜の血がそのままアジアの戦後史です。大韓民国にしても済州島4・3事件や光州事件はまだまだ遠い記憶ではないはずですし、朝鮮民主主義人民共和国にいたっては何をかいわんやでしょう。
平成23年(2011年)3月の東日本大震災はこの国に未曾有の被害をもたらしましたが、その一方で、目立った略奪行為もなく被災民が秩序を保ち助け合う姿は世界の驚嘆と感動を呼びました。彼らをひとつにまとめ上げたものは、国家の厳しい統制でも民族主義的な求心力でもありません。まさしくこれは「和」としかいいようのない、われわれ日本人の共通分母なのです。「和」がある限り、われわれに国家と民族の葛藤は生じないともいえます。
初出・『韓国呪術と反日』(青林堂)
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