金城哲夫と玉川学園
(はじめに)
今年(2022年)もいろいろありました。大きな思い出としては、あのウルトラマンのスーツアクターで、アマギ隊員役の古谷敏さんとトークイベントをさせていただいたこと。敏さんとは何度かお会いしたことがありましたが、こうしてコラボさせていただくのは初めてです。最初にお会いしたのはミスター・エイケン鷺巣政安さんのインタビュー本『アニメプロデューサー鷺巣政安』(ぶんか社)という本の巻末に収録した、鷺巣さんとの対談企画でのことでした。あまり知られてはいませんが、敏さんと鷺巣さんは親友同士で、家族ぐるみのお付き合いだとか。インタビューの中でもたびたび敏さんのお話が出てきます。そこで実現した対談だったのです。対談では、あまり語られることのないビンプロ時代の話にも触れられているので、ファン必読です。
さて、肝心のトークイベントの方ですが、沖縄復帰50周年を記念して、脚本家でウルトラマンの創造主のひとりである金城哲夫さんにスポットを当てたものとなりました。敏さんは、金城さんの人柄を含めたさまざまな思い出や、現在にいたるご家族との交流などについてしばし語られ、そのあと登壇した僕は僭越ですが、ここの表題にあるテーマでお話をさせていただきました。当日はキャパ100人のところ、ほぼ満員御礼。私のつたない話にも真剣に耳を傾けられている方もいて、大変感動いたしました。
当日これなかった知人も多く、また、当日いらしたお客さんからも、僕のお話がとても興味深かったと声をかけてくれた人もおり、1回のトークで消えてしまうのはもったいないという意見もあありました。ありがたいことです。幸い、スピーチ用原稿が残っており、これをここに掲載いたします。ぜひ、当日の現場の雰囲気を味わってください。
金城哲夫と玉川学園・小原國芳、そして屋良朝苗
但馬と申します。初めての方も多いかと思います。物書きを生業としております。子供の頃、蓄膿症をやったおかげでこんな喋りです。お聞き苦しいところがあるかと思いますが、どうか最後まで付き合いください。
沖縄本土復帰50周年に絡めて、金城哲夫さんについて語る機会を頂きましたが、僕はもちろん金城さんとお会いしたことはありません。今回のお話に出てくる玉川学園のOBでもありません。語るに相応しい人間なのかはわかりませんが、その点も最初にお断りしておきます。
初代リアル世代にとっての『シン・ウルトラマン』
とはいえ、紹介の言葉にあった「ウルトラマンで育った男」、これは自信をもって本当だといえます。僕は昭和37年生まれ。『ウルトラマン』初放送時は幼稚園。まさにウルトラ第一次世代ですね。庵野監督も樋口監督ほぼ一緒です。だから、『シン・ウルトラマン』観たときに、やられた!と思いましたね。あ、僕が最初に出会ったウルトラマンがスクリーンにいると。
もう皆さん、映画の方はごらんになっているでしょ? ネタバレにならないと思うから言いますけど、ウルトラマンの初登場シーンのとき、彼の体の模様がグレーでしたね。
あれはまさに、僕が子供のころ、白黒テレビで見たウルトラマンそのものだったんですよ。あの時代、ほとんどのお家がまだ白黒だったと思います。おそらく庵野さんや樋口さんのお家も。
そんな僕も今年は還暦です。これまで、本放送、再放送、ビデオ、YouTubeと何10回と『ウルトラマン』を観てきましたが、全然飽きない。そのつど発見があり勉強があります。まさに「ウルトラマンで育った」「育てられた男」が僕です。
60才というと、気の早いやつはもう孫がいる。親子三代で楽しめるキャラクターがウルトラマンです。それどころではない、Ultramanはもはや世界共通語です。日本にもミッキーマウスに並ぶキャラクターがいることをウルトラマンは証明したのです。
ウルトラマンと屋良朝苗
前置きが長くなりました。本題です。
さて写真。 写っているのは誰だかわかりますか。そうです。髪をきっちり固めた金城哲夫さん。ウェディングドレスを着ているのは奥さんですね。奥さんでなくちゃ大変ですけど(笑)。
金城さんの隣にいるおじさんが媒酌人。この人こそ、沖縄本土復帰運動の象徴であり最高リーダーだった屋良朝苗さんです。(写真4)
屋良朝苗さんというと沖縄では知らない人がいないというほどの大偉人です。写真は沖縄出身の元アイドルで現国会議員の今井絵理子さん。
彼女が読んでいるのは『屋良朝苗回顧録』です。”やらちょうびょう“て、こういう字を書くんですね。
屋良先生は明治35年(1902年)、沖縄の読谷で生まれています。広島高等師範大学、今の広島大学ですね、を卒業後、沖縄県女子師範学校、県立第一女子、そして台湾に飛び、台北第一師範学校で教鞭を取り、戦後、第5代行政首席、実質上の知事ですね、を務めながら、本土復帰運動に身を捧げるのです。
昭和28年、国会参考人と呼ばれた屋良さんの演説は特に有名で、この演説が政府を、そして国民を大きく動かし、沖縄の祖国復帰の原動力となったといわれています。
玉川学園に“留学”
金城哲夫さんは昭和13年に東京麻布で生まれています。獣医だったお父さんが麻布の獣医学校に通っているときにできた子供です。2歳のときに一家そろって沖縄に帰ります。金城さんは沖縄出身といわれますが、正確には東京生まれの沖縄出身者なんですね。
中学まで沖縄で学び、卒業後、東京町田市の私立玉川学園高等部に入学します。当時、沖縄はアメリカの統治下にありましたから、便宜上は“留学”になります。
玉川学園は、現在、幼稚園から大学院まで揃った、日本有数の一貫校です。独特の自由教育をモットーにし、小学部から高等部まで同じ教室で学ぶカリキュラムがあるなど、かなり進歩的な学風で知られています。
それだけに学費も高い(笑)。一説には日本一高い。僕の友人でも玉川に通っているやつがいましたが、社長の息子とか華僑の娘とか芸能人の子弟とか、そんな子たちでした。
金城さんのお家も息子さんを玉川に本土留学させ、しかも寮住まいさせるわけですから、沖縄でもそれなりに裕福な家庭だったと思いますよ。
でもね、彼が多感な10代をこの玉川学園の自由な空気の中で過ごしたということの意味は大きいと思います。生まれ持った比類なき想像力の芽を大樹にまで育て上げたのはこの玉川時代だと断言したい。玉川に通っていなければ、先輩である円谷皐さんと知り合うこともなく、円谷プロに入社することもなかった。担任の上原さんの紹介で関沢新一に脚本の指導を受けることもなかった。ひいては、ウルトラマンがこの世に誕生することもなかったでしょう。
小原國芳と沖縄
玉川学園の創立者で学園長だったのがこの人。
小原国芳です。小原さんは成城学園の創立メンバーでもありました。
明治20年(1887年)、鹿児島の久志というところで生まれています。久志は漁村で、小原さんの生家の前はすぐ海。子供の頃は、交易でやってくる琉球船をよく目にしたそうです。彼と沖縄との不思議な縁はそんな頃に始まっているのですね。
小原さんの成城学園時代の生徒に尚侯爵の子息がいらしたそうです。尚家はつまり琉球王家。廃藩置県後に、爵位を与えられ華族となりました。ちなみに尚家第23代、今の当主の尚衛(しょうまもる)さんは玉川大学出身。彼もまた小原さんの教え子です。
小原国芳は生涯で2度、沖縄を訪問しています。2度というのは、ちょっと少ないように思えるかもしれませんが、1度目は成城学園時代の昭和2年、戦前です。空路もなく、船を乗り継いで、片道一週間の旅でした。
2度目は昭和27年。サンフランシスコ講和条約締結の年です。沖縄は琉球列島米国民政府と呼ばれていました。先ほどもいいましたが、沖縄は「外国」だったのです。本土から行くにもパスポートが必要でした。申請する書類の数も膨大だったといいます。
それから、信じられないかもしれませんが、昭和40年代くらいまでは、アメリカに旅行に行くのにも何本も予防接種を打たなければいけませんでした。それらもろもろの準備だけで4週間かかったといいます。今より沖縄はずっと遠かったのです。
昭和47年、沖縄が本土復帰を果たした時は、もう小原さんは85才でしたからね。3度目の訪問はさすがにきつかった。
わずか2度の沖縄訪問ですが、その2度の訪問は、教育者・小原国芳にとってとても濃密な体験だったようです。特に2度目の沖縄訪問は、実は金城哲夫にとっても重要なものとなりました。
一冊の本
このとき、小原さんを沖縄に招いたのが、先ほども触れた沖縄教育界の重鎮・屋良朝苗さんです。二人は広島高等師範学校の先輩後輩で年の離れた親友でもありました。共同でフレーベルの全集を翻訳しています。フレーベルというのはドイツの教育学者で幼児教育の大切さを説いた人です。アンパンマン関係の本や幼児向けの絵本を出しているフレーベル館という出版社をご存じでしょうか。むろん、このフレーベルにちなんでつけられた名前です。
屋良さんの案内で小原さんは沖縄を巡り講演を繰り返し、積極的に現地の小中学校を視察します。講演はどこも大盛況でした。
昭和27年といえば、本土でもまだ戦争の傷跡が生々しく残っている時代。唯一地上戦のあった沖縄の物的人的疲弊はすさまじいものがありました。
馬小屋を教室に、一冊の教科書でクラス全員が学び、週刊誌の余白をノート替わりに授業を進める児童たちの姿に胸を痛めた小原国芳は、帰郷後、学用品とともに、児童大百科事典をはじめ、玉川学園で出版している本を中心に7000冊を沖縄に贈ります。
また、映画『ひめゆりの塔』をヒットさせていた東映に掛け合って、収益の一部を沖縄の教育促進のために寄付させています。
当時、この映画『ひめゆりの塔』を観て、沖縄戦の悲劇を知った人も多かったのです。GHQの情報統制がそれだけ厳しかったということですね。アメリカ軍が、壕(ガマ)にガソリンを流して火炎放射器で民間人を焼き殺した、なんて話を大ぴらにされては都合が悪いわけです。
小原さんが寄贈した本の一冊を借りて読み、深い感銘を受けた女性がいました。金城ツル。金城哲夫さんのお母さんです。ここで金城さんと玉川学園のつながりが生まれるわけです。ツルさんが読んだ本、それは小原さんが書いた『母のための教育学』という本でした。
モロボシダンのおやじ?
金城哲夫の玉川入学は昭和30年。これは玉川学園のHPから拝借した当時の入学式の写真です。3列目中央に金城さんが見えます。ここ(横)にいるのが小原園長です。
小原さんという人はとても気さくな園長さんだったようですね。生徒、学生から「おやじ」「おやじさん」と呼ばれるのを好んだそうです。
知り合いの玉川OBの人に、本当に「おやじ」と呼んでいたの? と聞いたら本当だって。「おやじが講義し出すと長いからなあ」とか普通に言っていたそうです。これが玉川の伝統だとか。
金城さんもきっと園長先生を「おやじ」と呼んでいたのでしょうね。となると金城さんが、父親以外で「おやじ」と親しく呼んだ人は二人。小原園長と円谷英二監督ということになります。
小原園長に「おやじ」と最初に呼んだのは誰かというと、諸星洪という人で、昭和4年の玉川第一期生です。
この人がこんな本を書いています。題名はズバリ『玉川のおやじ』。
金城さんもこの名物先輩の本を読んでいるはずです。ひょっとしたら、モロボシダンというネーミングのヒントはこの諸星洪さんじゃないかな、と睨んでいるんですけどね。
小原さんのお家は学園のキャンパス内にあって、生徒は結構自由に出入りしていたようです。園長を「おやじ」と呼ぶように、夫人は「おばさん」「おばさま」と呼ばれていました。
玉川っ子
すごく独特の校風ですね。生徒と園長の距離がとても近い。それでいて尊敬の念もしっかり伝わってくる。また、生徒、学生、OBの絆がとても深いんです。現役、OB問わず、自分たちを「玉川っ子」と呼んでいる。
金城さんの玉川大学時代のこんなエピソードがあります。夏休み、同級生と二人、東海道五十三次徒歩の旅に出たそうです。とりあえず、その日の目的地につくと、卒業者名簿を開いて、その土地に住むOBの家に電話をかける。「玉川の学生ですけど、今徒歩で旅しているところです」「おおそうか、宿がないなら泊まっていけ」とか「飯食っていけ」と。一度も会ったことのない先輩ですよ。いきなり電話一本、「玉川っ子」ということだけで泊めてくれちゃう。
おかげで道中、ほとんど旅費はかからなかったとか。
玉川学園沖縄慰問隊
この写真はやはり玉川学園HPからの借り物です。
同学園と沖縄との交流の歴史は古いです。日本の学校でもいち早く通信制度というものを設けていましたが、それは遠く沖縄の生徒のためにつくったといいいまず。
写真は玉川学園沖縄慰問隊の壮行会。昭和31年です。有志をつのって沖縄を訪問、現地の高校生と交流を図るというものです。慰問隊という名称はいかめついですが、何度もいいますように米国の統治下、「慰問」という名目でどうにか許可が下りたそうです。
このときの隊長が金城哲夫さんでした。
慰問隊は各地で大歓迎を受けました。隊長の金城さんはこのとき、小原園長の紹介状をもって屋良朝苗さんに面会しています。これが縁で後年の晩酌人につながるんですね。
出向いた沖縄の高校での歓迎会では、日米国旗が掲げられました。名目は日米交流ですからね。迎えてくれた沖縄の高校生が言ったそうです。
「僕らはこういう機会でもないと、堂々と日の丸も掲げられないんだよ」。
神なき知育は知恵ある悪魔をつくる
さて、最後に小原国芳、玉川のおやじさんの「書」を紹介しましょう。おやじさんは多くの書を残しています。中でもよく書いたのは、この字です。「夢」。
くしくも今日の主役、古谷敏さんも色紙によく「夢」「夢道」といいう文字を書かれます。演技者も教育者の人の心に夢を残すのが仕事、あるいは、夢がなくてはできない仕事、というところでしょうか。
もうひとつ、小原国芳が好んだ言葉。
「神なき知育は知恵ある悪魔をつくることなり」(写真12)
この言葉、一部を変えて、金城哲夫脚本『ウルトラセブン』第18話「空間X脱出」にキリヤマ隊長のセリフとして出てきます。このエピソード、敏さんの演じるアマギ隊員もとても印象的でしたね。
キリヤマ隊長はこう言うのです。
「神なき知恵は知恵ある悪魔をつくることなり。どんなに優れた科学力を持っていても、奴は悪魔でしかない」
金城哲夫さんは昭和51年(1976年)、37才の若さで亡くなってしまいます。
今も彼の書斎は時を止めてそのままの姿で残っています。書棚には「小原国芳全集」が並んでいるそうです。
その翌年の昭和52年(1977年)、恩師である小原国芳もこの世を去ります。90才の大往生でした。
僕のお話は以上です。ご清聴ありがとうございます。
●扉写真は、小田急線祖師ヶ谷大蔵駅前。かつてこの街に円谷プロ、並びに円谷英二邸があった。金城哲夫が行きつけにしていた焼き鳥屋も現存する。今は駅前にウルトラマンの像が建ち、ウルトラの街として再生している。但馬のホームグラウンドでもある。
(おまけ)
シュワッチュ