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目からビーム!80 フェミハラの時代

 最近の流行り言葉なのだろうか、リベラル系のライターのエッセイなどで「生きづらさ」というフレーズをよく目にする。書いてある文をよく読むとたいがい大した話ではない。
 命からがら豆満江を渡った脱北者に「生きづらいですか?」とたずねるバカはおるまい。難民キャンプの子供たちに「生きづらい人、手を挙げて」と聞くバカもおるまい。次元が違うのである。気安く「生きづらさ」なんて書く人は、真剣に自分の人生を生きているのかなと疑問に思ってしまうのも正直なところだった。
 しかし、ここへきてお恥ずかしながら前言を撤回したくなった。生きづらいとまではいわないが、世の中もずいぶんと息苦しくなってきたなあと感じずにはいられないのだ。特に、物書きという、言葉をなりわいにしている身としては。
「女性の多い会議は時間がかかる」と発言した元首相が五輪組織委員会長を辞任に追い込まれる、「うちの嫁が」と言ったタレントがバッシングを浴びる、そんな世の中につくづく息苦しさを覚えるのだ。自分の配偶者に「嫁」という呼び方がふさわしいかという話はここではおいておく。それをいうなら、配偶者以外に「ツレ」という語を使うのは、僕の世代では違和感があるし。嫁という字に家がつくのが封建的だというなら、「稼」や「塚」もアウトだろ。僕は文筆人と自らを名乗っているが、「なぜ文筆家ではないのですか」と問われると「”家”がつくほど稼いでいませんから」と答えることにしている。フェミニストを自認するライターは僕にならって文筆人を名乗るがよろし。
 これもまた流行りなのか、最近やたら新種の「ハラスメント」が氾濫している。
 セクハラ、パワハラはおなじみだが、ヌーハラやコクハラになるともうわけがわからない。前者はヌードル(麺類)をズルズル音を立てて食べるハラスメント、後者は脈もない時点で異性に告白するハラスメントのことなのだと。異性といってもこの場合は女性であろう。男一匹、玉砕覚悟の愛の告白もハラスメント(いやがらせ)と両断されてしまう世の中たぁ、まことに生きづらい。
 なんでもかんでも、女性蔑視だ、ジェンダー・ギャップだ。なるほど政治家殺すのに刃物はいらぬ。さて、男どもよ、このフェミハラの時代をどう生き抜こう?

初出・八重山日報

(追記)


▲上はダメで下はOKらしい。基準を教えてほしいものだ。

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