照葉樹林・ドングリ文化
<照葉樹林・ドングリ文化>
アフリカの森林からサバンナに追い出されたヒトは長い旅を経て、東洋の地にたどり着いた。そこでヒトは驚くべきほどの豊かな森林にたどり着いた。木の実の採集中心の縄文時代の文明をドングリ(オーク)文明と呼ぶ学者も多い。
ドングリの実は他の果実類と違ってタンパク質が豊富であり、さらに放っておいても勝手に大量の実がなる。集落全員で1週間も山でドングリを拾えば、一年分の主食が蓄えられることができたようだ。空いた時間はあの複雑で美しい縄文土器の制作に費やしたのだろう。
実は植生が貧しいほど肉食になる。肉食・菜食どちらが優れているというわけではない。そこには風土という大前提がある。現代のように遠くから食糧を運んでくるということは、植生が貧しいのか、植生は豊かだがそれを活かせるヒトがいないか、どちらか。
日本では最終氷期が終わると日本海へ対馬海流が流入する。暖流と山の存在が水に恵まれた寒さに強いブナなどの落葉樹林の楽園に変えた。
このブナ林のおかげでその後訪れたヤンガードリアス(寒の戻り)を耐えることができ、植生貧しかった他のヨーロッパの森林はもう一度草原に変わってしまった。
約1万年前に最終氷期が終わると、針葉樹林帯が北や高地へと後退し、代わりに落葉樹林と照葉樹林が広がって、ナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳類は次第に生息地が減り、狩猟によって絶滅してしまった。
縄文人は小さい哺乳類を引き続き、捕らえていたが、新しい植生に伴って、クルミやクリ、トチの実の採集と、内陸まで進出してきた海岸線から食物を得る漁労が中心となっていった。こうして始まった縄文時代草創期とは縄文土器による、煮物から始まった。土器はまさに日本においての適正技術そのものである。
植物学者中尾佐助によると、アジアの農耕文化の起源地は中国雲南省地方で亜熱帯であり照葉樹林地帯だという。日本の農耕文化やそれに伴う様々な自然資源の利用もその文化に組み込まれていると考えられている。
西日本中心のドングリ文化は照葉樹林を中心とした雲南文化に源流の一つがある。雲南省でもハチ食文化があるのは見逃せない。焼畑において鎮火した後に芋類と雑穀を栽培するのが共通している。また陸稲も多い。オオムギが日本で発見されるのは弥生時代早期以降。伝来経路は北方経由ではなく西日本。アワやキビも同様だ。
照葉樹林文化論には栽培植物だけでなく多様な食文化とそれにまつわる儀礼や行事、信仰なども含まれている。日本では昭和の後期までお祝い事にドングリを食する文化が残っていたが、ヒマラヤ山麓や中国雲南省では現在も残っている。
ヒマラヤ山脈の東部山麓標高1500Mあたりを旅したとき、深い原生林に足を踏み入れると不思議と気持ちが和らいだ。なんとも懐かしい気持ちになったのだ。それは足元を見ればすぐに分かった。ドングリが落ちていたのだ。つまりここは照葉樹林のドングリの森だった。
世界でもヒマラヤ山脈東部から中国東南部を通り、日本の温暖な地域だけが照葉樹林の分布域である。温暖であり、かつ水量が多い地域にしか照葉樹林は生息していない。しかし照葉樹林帯は昔から開墾の対象であったため、そのほとんどが失われ、今はここ日本とヒマラヤ東部だけに残るだけとなった。
しかし日本でも大規模な照葉樹林帯が残っているの宮崎県の綾市の山間部や屋久島西部、沖縄県北部のやんばるの森くらいとなった。ただし鎮守の森や自社林といった小規模なら全国各地に残されており、巨木林が私たちを迎えて入れてくれるだろう。
代わって東日本~北海道中心のドングリ文化はナラ林文化とも呼ばれる。こちらでは焼畑が行われること自体が珍しい。常畑農耕としてアワ・キビ・エンバク・ゴボウ・ネギ・アサなどが栽培されてきた。ヒエは8000年前、アサは1万年前、ゴボウも縄文時代前期、アブラナ科も縄文時代創世記から栽培されていた可能性がある。
東日本ではマテバシイ、カシワ、ミズナラ、トチ、ホオノキの葉が食器になる。アイヌ民族では大きなフキ、樹皮の器などで水を汲み、鍋にもした。
土器の起源は特に分かっていないが最も古い時代の土器はいずれも煮炊き用の深い型である。東アジア東北部が土器の起源であることは間違いない。シベリア沿海州、アムール川下流域、日本東北部に土器の分布域がある。土器はもともとドングリを煮炊くために使用されていたようだ。
クズ、ワラビ、マムシグサ類(日本ではサトイモ科シマテンナンショウ)などのイモを救荒作物として利用している。クズワラビは樹木を切り倒してひらけたところ、マムシグサは樹木の根元によく生えてくる。
照葉樹林の貴重な食物であるドングリ類とこれらイモ類はどちらも大量の水で煮たり晒したりすることでアク抜き・毒抜きして食べることができる。縄文土器が全国で使用されたのは樹種は違えど、そこにドングリが落ちていたからである。縄文人は狩猟採集というよりも拾い物民族と言えるだろう。
ヒマラヤ東部から日本にかけての文化には他にもチャ、絹、ウルシ、柑橘類、シソ、それに酒など多岐にわたる。柑橘類はヒマラヤ中腹からインド・アッサム山地にかけて多様な品種がある。
照葉樹のチャは照葉樹林地帯各地でさまざまな製法で薬用として利用され始め、次第に食用、そして嗜好品飲料となった。水がたくさんあるからこそ蒸して緑茶にしたり、煮出して飲むことができた。また発酵茶も適度な湿度が必要であり、微生物の活性に湿度が必要だ。
東部ヒマラヤからアッサム山地には日本の蚕とは別種で20種以上の昆虫の繭が利用されている。絹の生産地と照葉樹林地帯は一致する。
ウルシは照葉樹林帯の南沿いに変異が多くある。ウルシは乾燥に空気中の湿度を必要とし、製品も適当な湿度の場所でないと損じやすい。照葉樹林帯は漆器の作りどころ、使い所となっている。
照葉樹林が生んだ食文化といえば、麹菌による発酵食品だろう。穀類のデンプンをカビの力をかりて糖化する。ビールは麦芽の酵素でデンプンを糖化するのが違いだ。
中国からインドネシア、さらにヒマラヤ地域にかけては餅麹と呼ばれる餅型の固まりの麹が一般的で主にお酒造りに利用される。海を渡った日本ではバラ麹という独自の製法に進化した。
シソは世界中に変種がたくさんあるが、それを食品として利用しているのは照葉樹林帯のみ。インドの平野部には近縁種のトゥルシーがあるが、シソはほとんど利用されない。ただしヒマラヤ山地に近づくと利用され始める。アッサム山地では食用や油用として栽培されている。シソの香りは照葉樹林の香りと言えそうだ。
縄文時代の石器の大部分は狩猟具でも、武器でもなく、工具だった。とくに大工や木工用の石器だった。つまり住居や家事の道具を作るための石器である。日本全国に生い茂っていたドングリの巨木を刈り倒し、集落をこしらえ、生活を営んでいた。その営み自体が村の周りに生物多様の環境と植生を作り出していた。
ドングリの恩恵はときに豊作と不作を繰り返す。それに加えて縄文時代から弥生時代へと推移した時代は気候の変換期でもあった。地球は次第に寒冷化していき、中国大陸から多くの移民が渡来してきた。そこで縄文人たちと移民は新たな文化を融合から作り出していったようだ。
ここ日本でははじめ照葉樹林地帯の根菜農業文化がやってきて、さらにサバンナ農耕文化、そして地中海農耕文化が融合していった。そして現代では世界中の植物と家畜が混ざり合った生態系をなしている。