風土を識る
<風土を識る>
「風土」という言葉には地域とも環境とも少し違うニュアンスがある。風土には人間の営みや文化が、気候・気象・地形・地質・景観と合わさってともに育まれているさまを意味しているように思える。つまり風土とはその土地の資源を最大限に生かした人間の営みそのものであると言えるだろう。
飯沼二郎著の「風土と歴史」にはこういった説明がされている。
「風土というものは、人間の力でほとんど変えることのできない自然の枠ではあるが、しかし、それをどう利用するかは、人間の側の主体的な条件(端的にいうならば、資本と労働のあり方)の違いによって変わってくる」
「風土に貴賎はない。あるのはただ、それに関わりを持つ人間のあり方の違いのみである。それは、具体的には、資本と労働のあり方ということになろうが、さらに根本においてそれを規定しているものは、個人の人格であろう。」
田畑だけではなく、里山全体を観察しながら歩いてみると人間の周りが一番多様性が富んでいることがよく分かる。現代人はすぐに在来種や外来種という枠組みにこだわるが、生物多様性という視点から見れば、人間の営みに一番近いところが一番豊富であり、人間の営みから離れるほど多様性は減少していく。
日本人は歴史以来だいたい二次林や混合樹林の中に住んできた。アマゾンの森林のほとんどが二次林であるように、日本の森林もまたほとんどが人間による開発が入っている。しかしその森林こそが、一番生活に適した森林である。
針葉樹も落葉広葉樹も、照葉樹も、灌木なども混合した森林。それらが場所によって異なっていて、つかみどころがない。この森林は林業的には無視され、経済的には薪炭林の供給地として役立つとされるくらいだ。
万葉集に多く登場するハギはこういった森林に生えてくる。野生のサクラも同様に。日本は世界でユリ類が一番見事な国で、ヤマユリ、ササユリ、カノコユリ、テッポウユリがその時期になるとの山を装うが、これらは二次林のユリである。
古来から現在に至るまで日本人が愛した美しい花を持つ植物のほとんどがこの二次林で生育する。マンサク、キブシ、ヤマブキ、ウツギ、エゴノキ、ヤマアジサイ、ツツジ、アセビなど。一面に山を飾ることは稀であるがここに一本、あそこに一本、と違った木が生えている。そして時期をずらしながら次々と異なった種類の花が咲く。
地表にもまた山菜類の種類が多く、美しいものがたくさんある。これが日本の里山の風土がもたらす景色、つまり風景である。植物の種類が多いから、虫の種類も多くなり、鳥の種類も多くなる。植物を楽しみながら虫の声も、小鳥のさえずりも楽しめる。
栗原浩著の「風土と環境」にはこんな説明がある。
「風土的認識とは自然が持っている全一体の調和を重視し、人間もその中に入った立場から相対的認識である。
(環境的認識とは人間を中心に、自然を客観的なものとして末、諸現象を科学の方法論に従い要素分解的に探求しようとする。)作物が風土を受け入れながら、その喜びや悲しさを微妙にカタチに表現しているととらえ、作物の主体的な生き方を介して諸現象を見ていくのである。」
風土はその時代によって変わっていく。江戸時代の風土と縄文時代の風土が違うように、現代の風土もまた違うだろう。そしてそれは間違いなく現代の風土が一番多様性に満ちている。
風土を作るとは人間が田を作り、畑を作り、森を作り、川を作る。それによって、コメができる、野菜ができる、木材ができる。その積み重ねとつながりが風土となる。地域の限界を知り、その地域の中で暮らしをより豊かにするために農業をする。酪農をする。工芸をする。それもまた風土を育んでいく。
マクロ的な風土には農家はあるがままに受容し適応することになる。ミクロ的な風土にはある程度の改変が可能であり、村・地域ぐるみで取り組むことが多い。そのどちらもが有機的につながり、連動することで風土は熟成されていく。
風土に合っていない農業は必ず衰退するし、人間の暮らしも営みも自ずと苦しくなる。日本の伝統的な百姓がさまざまな職業を複合経営していたように、日本の多様性に満ちた環境には自ずと兼業や複業が営なわれるだろう。
植物にとって、動物にとって、微生物にとってその特性に適合した環境が必要であるように、ヒトにも最適な環境がある。古代中国ではその研究が非常に盛んに行われていて「風水」として現代まで受け継がれている。
東アジアの社会では、その場に内在する氣を読み解く感性を重視し、ときに動植物、生物・非生物を利用して整えてきた。しかし土地にはそれぞれの土地が持つ氣があり、地形の特性と相まって、その場に根づいているものだと考えたことから、イヤシロチと呼ばれた。
風水はヒトと天地のつながりを重視する。ヒトという存在は「いま」という時間、「ここ」という場所に生きている。「存」は天の日月星辰のめぐりがおりなす時間、「在」は大地自然が織りなす空間を意味している。ヒトは天地と離れて生きることができない。そしてヒトが集まって作る世界には地縁や血縁、良縁悪縁があり、人々の交流によって、自己はその関係性の中で築かれていく。「縁」は東アジア特有の信仰で、場やヒト、モノの氣のエネルギーが生命力に影響を与える重要なもので、特に氣が強い場や樹木、岩石には社が置かれて、みなで共有し守り、受け継いでいった。
風水という名の通り、とくに風の流れと水の流れを重要視した。それは目に見える地表面のものから、地下を流れるものまで。目には見えないものを感じる能力は風水を読み解く能力として重要だった。百姓の野良仕事とは植物のために場の氣を整えることで、大工の仕事とは住むヒトのために整えることで、政治家の仕事は民のために整えることだった。
風水の面白いところは、単なる技術や吉凶を占い存在ではないことだろう。風水によって氣を活用するには徳を積み、善徳に励むことが大前提になっているのだ。そのため人事を尽くし、天寿を全うすることを説く。天地の利はヒトの行い次第で、表情を変えるという。この思想には儒教の思想が隠れていて、風水技術の恩恵のみを追求することを諌めているようだ。
その中でも「背山面水」は日本の里山でよく取り入れられている風土である。北側に山、南側に水を配した地勢
で、北からの乾燥した寒冷な風を防ぎ、南の水は南からの風が水面で冷やされ涼風をもたらす。北の山から流れてくる流水が東に流れ、街道が西に続く。
京都の平安京も江戸の町もこの配置である。これは中国思想の四神相応つまり「東に青龍(清流)、西に白虎(大道)、南に朱雀(池)、北に玄武(丘陵)」が意識されている。
江戸時代以降、東の流水は河川や水路の整備によって人工的にデザインすることが可能となり、同様に街道も整備された町が築かれた。また南の水は主に田んぼがその役割を担う。つまり北側に山があれば十分となる。これを元に暮らす里山を探したり、デザインしてみることも面白いだろう。
その風土を識るためには土地の名前もまた参考になる。ほとんどの民族がその土地の名前に思い出が宿っている。祖先や親戚、家族、友達や知人の誰かがそこで何かをし、成功した話や失敗した話がある。それを思い出話のように辿っていくから、彼らは同じような景色が広がる荒野や森林内でも道に迷わない。ときに注意喚起でもあり、ときに恵みのサインでもある。
ほんの少し前までは日本の住所には大字小字が多数あり、それがその地名の歴史と思い出を語っていた。地形や地質を表していた。そこに住む民族と職業を明示していた。その地名は他所の違いはあれど全国的に共通したものであったため、はじめた訪れた土地でもその風土を識ること、推測することができた。しかし、その地名は今どんどん失われている。地名が失われるということは風土が失われていることなのかもしれない。