森は海の恋人
<森は海の恋人>
「森は海の恋人」とは「海の幸は森の恵みの賜物」という意味。この言葉は宮城県汽船沼氏の牡蠣漁師・畠山重篤さんの名言である。
瀬戸内パラドックスという言葉が海洋生物学にはあるのを知っているだろうか。世界には内海がいくつかある。たとえばヨーロッパのバルト海や地中海、アメリカ東海岸のチェサピーク湾など。
しかしそれらの内海に比べて瀬戸内海にはとても豊かな生物多様性が広がっている。それゆえに漁業生産高も高い。とくに瀬戸内海の植物プランクトンや海藻の生産量に比べて、魚が異常に多く獲れているという。
これは最近で一番漁獲量が多かった昭和四十年の約半分まで減った現代でも当てはまるのだ。生態系ではピラミッド構造の生物量が必要である。一般的に各ピラミッドの階層はそれぞれ上の階層に上がると10分の一の量になる。だから、植物プランクトンや海藻が多くなければ、魚は獲れないはずなのだ。ゆえに瀬戸内海パラドックスと呼ばれている。
このパラドックスを解く鍵はいくつかある。そのうち森と関係することがある。まずは陸から運ばれてくる木の枝や葉っぱなどの植物性有機物だ。これらはセルロースやリグニンなどが主成分だが川にいる微生物には分解が難しい。
しかし、海の底にはほとんど見当たらないということはどこかで誰かが分解してるはずだ。その仕事をしているのがラビリンチュラという微生物である。ラビリンチュラとは単細胞生物であり、真核微生物であり、落葉落枝の分解を意外にも早いスピードで行なっている。
ラピリンチュラが自分の細胞内に油脂をため込むという独特の性質も持っている。この油脂は健康食材で有名なEPAやDHAといった高度不飽和脂肪酸である。少し違った種である珪藻もまた同じようにため込む性質を持っている。
このラピリンチュラと珪藻は海では主に魚が栄養源とする生物だ。つまり瀬戸内海のジャコやカタクチイワシなどがEPAやDHAを多く含む魚となるのは、元をたどれば森からやってくる植物性の有機物なのである。彼ら無くしてうまくて健康的な脂質はとれない。
このラピリンチュラは汽水域を好んで生息する。汽水域とは海水と淡水(川の水)が混ざり合うところだ。森と海が出会うところとも言える。
もう一つ森と海をつなぐ主役がフルボ酸である。フルボ酸は酸にもアルカリにも溶ける性質であり、土壌鉱物から微量要素を溶かす役割を担う。
フルボ酸は意外と簡単に見ることができる。よく水を張った田んぼに油の膜のようなものが漂っていることがある。それこそがフルボ酸である。このフルボ酸は鉄を覆うことで、酸化鉄になることを防ぐ。
実は世界の海洋の中でチッソやリンが最も多いのは赤道直下の海流であるが、この回流域には瀬戸内海のように多様な海中生物が棲んでいない。逆に瀬戸内海はチッソやリンがほとんど生物に利用されているために少ない。つまりチッソやリンだけでは生物が成り立つわけではないということを示している。その鍵となるピースが、そう鉄なのだ。
なぜ私たち生命の身体に鉄が必要なのかといえば、ミトコンドリアが必要としているからだ。私たちが酸素をエネルギーとしているのは細胞内共生しているミトコンドリアが酸素からエネルギーを獲得する。そのミトコンドリアは呼吸をするときに細胞内でいくつかの酵素を使うが、その中心には鉄がある。
アメリカのジョン・マーチン博士は窒素とリンが豊富にあるにも関わらず植物プランクトンが少ない海域の謎を解明し、「HNLC海域に植物プランクトンがいないのは、鉄が足りないからだ。海が貧血(貧鉄)なのだ」と語った。そして、実際に鉄分を補う実験をしたところ、たちまち植物プランクトンが増えたことで立証に至った。
瀬戸内海の端っこに関西国際空港がある。海の中に空港の島を作るのに下地に鉄を含む素材をたくさん入れた。するとその結果、海水中に鉄が溶け出し、藻が生え、魚が集まり、大阪湾の海の生態系が活性化。東京湾でもアクアラインの海ほたる建設時に同じことが起こった。シュノーケリングやダイビングをする人なら沈没船の近くに多様な生物が生息することを体験的に知っているだろう。
こうして、現代では海や河川に炭と一緒に鉄を一緒に入れることで環境改善に取り組む事例が増えている。炭は微生物の住処となるばかりかさまざまな物質を吸着することで浄化に役立つ。そして、鉄で生物を増やすのだ。
この鉄は地球上の表面にはどこにでも多くある好物の一つだが、空気に触れるとすぐに酸化鉄となり、多くの生物にとって利用できないばかりか毒として作用してしまう。土が赤いのは酸化鉄の色である。鉄はもともと青っぽいが酸化鉄になると赤くなってしまう。
この鉄を生命が利用できるような形のまま、海まで運んでくれるのがこのフルボ酸である。それはもちろん雨水を通して地中生物が、植物が取り入れることができる。
フルボ酸を自然界で作り出す役割を担っているのが腐葉土とそこに住み着く微生物あっちだ。腐葉土から生成されるフルボ酸はいまもなお謎の多い物質だがキレート作用を持つ。クエン酸とは全く組成が違うのだが。腐葉土から滲み出たフルボ酸は地下水となり、河川となり、その間に鉄分を沈殿させずに海へとたどり着く。これが瀬戸内海の多様性を生む。もちろん、海藻や牡蠣など私たちの食卓を彩ることとなる。
江戸時代、東京湾で魚を捕っていた日本橋の漁師町に住む漁師たちは秩父の山々を守っていた三峯神社に毎年献木(苗木代を奉納)していた。荒川の下流部の日本橋から100キロ離れた上流部の神社に。
森を作ることは海を作ること。それを経験的に知っていた人がいたのだ。江戸湾も瀬戸内海同様に海洋生物多様性の宝庫だったのだろう。現代の江戸前寿司は世界中の海から運ばれ、東京湾はこの100年ほどで砂漠化が進んでいるというのに。鉄を含む多様なミネラル豊富で冷たい伏流水(海底湧水)が海の砂漠化(磯焼け)を防止していたのだ。