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愛地心と楽園の作り方


<愛地心と楽園の作り方>

瀬戸内海に浮かぶ小さな島を旅したときだった。
友達の紹介で、その島を案内してくれた人はもともとこの島に仕事で訪れて、気に入ってそのまま移住したという。
彼は私よりも少し年上の写真家で、島の景色や人々の暮らしを撮りながら暮らしているという。

彼の案内で小さな島の美しい景色を見て回った。行く先々には穏やかな海の広がりと昔から変わらないと人々の暮らしがゆっくり流れていた。
小さな島だから行く先々で声をかけられる彼は島の人と少し話すと、決まって私にその人の暮らしぶりや思い出話をしてくれた。

彼は最後に一番のお気に入りだというスポットに連れてきてくれると、私のことを忘れてカメラを構え、写真を撮り出した。そして、私の方に振り返ることもなく「ほんとにここは楽園だ」と、はっきりと言葉にした。

その景色は本当に美しかった。これぞ瀬戸内海の離島の景色で、観光ブックの表紙を飾ってもおかしくないくらいだった。ただ、ここが楽園かと聞かたら、世界中の絶景を見てきた私は賛同しかねた。他にもたくさん楽園のような景色は何度も見てきたからだった。
しかし、この数時間の案内のおかげで私が知っている楽園と彼がいう楽園には大きな差があることに気づかされた。

彼のいう楽園はどこかにあって、それを見つけたり、たどり着けるものではない。それは部外者の旅人には決してたどり着けない楽園である。

なぜなら、そこには「私の想い出」がないからである。私たちはただ目の前で起きる現象を同じように受け止めて生きているわけではない。

同じ瀬戸内海の絶景を見ていても、はじめて見る私とそこで暮らしてきた彼が見る景色はまるで違っている。
彼がこの島で蓄積してきた「想い出」がその景色を鮮やかに彩っている。

似たようなことを私は山奥の古民家でも経験した。私がヒッチハイクで日本一周をしているときに乗せてくれた初老のおじいさんは自身の自慢の古民家に1泊させてくれた。
その実家はおじいさんが小さい頃に建てた家だといい、家の中を案内しながら、ひとつひとつ想い出話を聞かせてくれた。

煤で真っ黒に染まった大きなクリの木の梁を指差して「これはあの山の中腹にあった木をみんなで倒して運んだんだ」と縁側から見える山を眺めがら語った。
「この土壁は10年くらい前にみんな(家族総出)で塗り直したんだよ。綺麗だろ。」と滑らかな表面をさすりながら語った。
「この柱は先祖が建てた昔の家の柱をそのまま利用したんだ」と遠い目をしながら語った。

おじいさんが小一時間、古民家を案内しながら語る想い出話はずっと聴いていられるほど心地良かった。おじいさんの古民家にまつわる自慢話は居酒屋で聞かされる上司の自慢話とは比べ物にならないほど、食べ物が美味しく感じられた。

彼にとっての離島も、おじいさんにとっての古民家もそれはパワースポットそのものだった。そこには想い出がたくさん詰まっていて、案内するたびに思い出してはパワーを漲らせていた。私はそのパワーに魂が揺さぶられ、私もいずれは楽園を創りたいと強く思った。

近年、パワースポットが流行語となり、それらを先達の案内のもと、巡るツアーが人気である。もちろん、カミが宿るパワースポットというものは存在するし、私もそういったところを旅するのが好きだ。

しかし、そういった遠くの特別なパワースポットとは違う、身近でパーソナルなパワースポットというものを創り出すことが私たちヒトにはできる。これもまたヒトだけが持つ才能だろう。

その一つがパーマカルチャーデザインされたフィールドである。日本にもいくつか代表的なパーマカルチャーデザインされたフィールドが存在するが、ぜひともそこに足を運んでもらいたい。

そこを案内してくれる方はおそらくいろんな想い出話をしてくれることだろう。ひとつひとつの要素にアイデアがあり、試行錯誤があり、仲間たちとともに築いてきた物語がある。その想い出話は彼やおじいさんの思い出話とよく似ている。楽園は一人で作るよりも、みんなで作った方が楽しいし、早いし、人間関係が豊かになることがよく分かるだろう。

パーマカルチャーは一人でやるよりも、仲間たちと一緒にやるほうが楽しいばかりではなく、無理なく続けられる。自然農の畑はどちらかというと農家個人と畑の密接なコミュニケーションで、よりパーソナルな関係性が強い。それももちろん素敵な楽園になるが、パーマカルチャーのフィールドはよりオープンな関係性で築かれた楽園になる。

私はこういった楽園づくりから生まれる心を「愛地心」と呼ぶ。それはより身近な言葉で表すとしたら「地元愛」だろう。私たちがそれぞれ自分の地元を愛するのはそこに良い想い出も悪い想い出もたくさん詰まっているからだ。その土地に繋がれた地縁に生かされ、宿る地神に守られ、その地域にある恵みで暮らしてきた。

他の地域と比べてしまえば劣るところもあるし、優れているところもある。しかし、それでもやはり地元を愛するのはそこに想い出が詰まっているからである。だから私たちは地元から離れて暮らしていても、魂はずっと地元にあり、気にかけてしまう。

地元を愛して、地元で生きていると「いま、ここ」が世界の中心であること、そしてかけがえのない地球の上にあるあなただけのゼロポイントであることに気がつく。

地元を愛する心が深まると不思議と地球そのものを愛することになる。地域が違えど同じように地元を愛する人たちと繋がりはじめ、どこかの誰かが決めた国家や区域を軽く飛び越えて、協働的ネットワークを形成する。そして、地元の良さを残しつつ、地球そのものを愛する活動を起こす。ヴァンダナ・シヴァのシード・フリーダム運動やかっぱ運動などがその例だ。

楽園づくりにおいて重要な一歩目はいま、ここ」にあるものの美しさに気がつくことだ。足元の草花に、小さな虫の魂に、古くから受け継がれてきた道具や文化に、昔から変わらない人々の風景に足を止めて目を凝らし、「世界は美しい」と言葉をもらしたとき、私たちの心には愛地心が芽生える。

それらを受け継ぐとともに磨いていく。楽園を作るために「外から何かを持ってくる必要はなく、内にあるものを磨くだけ」でいい。遠くの特別なパワースポットと違って、ただ保存・保護するわけではない。積極的に関わって暮らしと融合することが身近なパーソナルなパワースポットの磨き方である。

自然農の畑は美しい。自然農の畑は農家の心が映し出される。家が散らかっている様子を心の乱れだと指摘されるように、畑が荒れている農家の心も荒れている。そういうときは畑を整えながら、心を整えるように心がけたい。自然農の畑では植物以外の生き物の美しさにも目を奪われる。虫たちの生活も鳥たちのさえずりも、雑草たちの生き様も野菜たちの頑張りも、観察すればするほど、この世界が美しいことに気がつく。魂が揺さぶられ、心が踊る。私にとって自然農の畑はパワースポットそのものである。

自然農の職人の動きも美しい。その美しさが野良仕事の効率さもスピードも精度も高める。それゆえに疲労も少なく、身体への負担も苦なく、道具の消費も少ない。それに呼応するかのように野菜も雑草も姿勢が美しくなる。古い道具や機械を長年使い続けられるのはその動きの美しさがあるからである。江戸時代の百姓が「丁寧さ」を重視していたのはこのためだろう。職人の世界では早さも美しさも長持ちも両立することがよく分かる。

節約や古いものを大切にする美徳は技術と結びついたものであり、言葉で押し付けるものでもなければ、言葉で身につくものでもない。

「古いものを白い布で磨く」と古いものにも新しいものにも出せないような味わいが醸し出すように、創造していこう。創造とは決してゼロから1を創り出すだけにとどまらず、いやむしろ今あるものを磨いて、新たな価値と物語を生み出すことだろう。

生きていれば誰だって苦しいことも寂しいことも辛いこともある。そういうときこそ、身近なパーソナルなパワースポット、あなただけの楽園が必要となる。そこにいるだけで不思議と穏やかに安心できる場所。ネガティブな感情を抱きしめながら暮らしていける場所が私たちヒトには必要だ。

愛地心は喜怒哀楽の暮らしの想い出が蓄積されていくことですくすくと育っていくだろう。誰かに強制されることもなければ、誰かにコントロールされる心配もない。ましてや赤の他人が持つ愛地心と楽園を壊そうとは考えることはない。

むしろ刺激を受けてより楽園づくりに励むだろう。そして手を取り合ってこの地球そのものを楽園にしようとするに違いない。その繋がりと協働こそが生命地域主義、バイオリージョナリズムである。


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