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自然界の失敗作 キリンとヒト


<自然界の失敗作 キリンとヒト>

自然農に限らず、新しいことに挑戦する多くの人々は失敗を嫌がる。できるだけ失敗したくないと考え、「失敗しない方法」を探す。誰も世界記録がかかっているわけでもないのに、失敗すると深刻そうに落ち込む。では、この自然界には失敗というものはあるのだろうか?

実は現代の生物学において生物は失敗を避けるように本能の中にプログラミングされていると考えられている。その生物学が考えている失敗とは二つに分けられる。

ひとつは「死に直接的or間接的につながる選択を取ること」。つまり自分の選択が死につながることは失敗だと考える。山菜だと思って毒草を食べるようなことや冷蔵庫の奥で腐っていた食べ物を食べてしまったことなどを想像してみればすぐに分かるだろう。

私たちは食べる前にそれが毒なのか栄養なのかを見極める力もあるし、口の中に入れても嘔吐や下痢によって強制的に排出することができる。痛み、苦しみ、しびれなど強い感覚があなたを襲うだろう。また死の可能性がある環境に対して私たちは恐怖を強く抱き、逃げるか戦うことを選ぶ。このように死につながる毒を見極めることも排出することも避けることも私たちの身体に遺伝的にプログラミングされていることは間違いない。

もうひとつは「突然変異」という遺伝子のコピーミスである。本来は私たちの細胞は完璧に遺伝子の複製ができる仕組みが備わっている。でなくては、生命を維持し続けることはできない。しかし、何らかのストレスが影響を与えてコピーミスが起きる。その代表的な失敗がガン細胞である。ウィルスがしょっちゅう変異することも同様である。

あなたは「ルカ」という生物を知っているだろうか。おそらく生物学好きでなければ、聞いたことがないだろう。ルカとは「Last Universal Common Ancester」の略で、日本語に訳すと「全生物最終共通祖先」となる。つまり進化の生命樹で説明されるように地球に生息するすべての生物は進化の過程によってこれまでにも多様性に満ちた生態系となっているが、それを遡れば必ず一つの種にたどり着くと考えられている。その生物とは現代に生きる単細胞生物のような存在だったと考えられている。

このルカの特徴は遺伝子の数が圧倒的に多いことであり、現代の生物からすれば「完全かつ完璧な生物」と言われている。高等生物が必ず体験するであろう死(確固たるオリジナルの遺伝子の消滅)もなければ、繁殖のために異生物を必要となく、栄養分の獲得も多生物を必要としない。生きるために必要なことはすべて単体でまかなえる生物だったのである。

しかし不思議なことに、ルカから進化した我々人類を含め、そのほとんどすべての生物はアベコベでデコボコの不完全かつ欠点だらけの生物に思える。進化したはずなのに。いったいどうしてルカは進化したのだろうか?いや、してしまったのだろうか?

現代に生きる生物、つまり進化最先端の生物を観察することでルカの目論見、進化の真髄がおそらく見えてくるはずだ。それが進化生物学の研究目的だとも言える。

さて、あなたはどうしてキリンは首が長くなったのか知っているだろうか?「そんなの背の高い木の草を食べるためだろう!」と答える人が多いに違いない。しかしそう答えるのは日本人だけと言われるくらい、なぜかこの話が広がっているのを知っているだろうか。

この回答がおかしいことに気がつくためにはキリンが水を飲んでいる姿を見たら、すぐにできるだろう。アフリカのような環境において生きる上で草よりも大切な水を獲得するためにあれほど脚を大きく広げて、頑張っている姿を見れば。それに背の高い木の草を食べるために進化するならば、サルのように木を登ればいい。そのほうが草も食べられるし、水も飲みやすい。

逆にキリンは水を飲むために一気に頭を地上すれすれに下げてしまうといきなり脳内に血液が流れ込んでしまい、血圧が急降下し、脳に障害が起きてしまうリスクがある。我々ヒトなら間違いなく危ない。しかしキリンにはワンダーネットという網目状の特殊な毛細血管の塊があって、緩衝装置として働くことで危険を回避している。これがなければ、首を上下させただけで脳内出血や脳貧血を起こしてしまう。これは決して進化の過程で努力によって身につけたものではない。

実はキリンと共通祖先でを持つ世界最大の珍獣オカピにもワンダーネットがある。オカピを見たことがないならば是非一度動物園かインターネットで見てもらいたい。何となく似ているが、首の長さは全くと言っていいほど似ていない。

もともとワンダーネットは動物が運動した時に体内で発生する熱により温まった血液がダイレクトに脳に流れ込むことで支障をきたさないよう、脳を保護するためのシステムなのだ。それが首が長くなった時に大活躍しているに過ぎない。

私たち日本人はいつの頃からか、進化には目的があり、努力の結果、環境に適応することが進化だという考えが浸透している。不思議なことにこれはかの有名なダーウィンの進化論ではない。ダーウィンの進化論では「進化に事前の計画や目的はない」と考える。

遺伝子のコピーミスつまり遺伝子の突然変異によって生まれた変わり者が「たまたま」新しい環境に適応していたため、もしくはニッチな環境に適応していたため、生存競争に有利だったおかげで繁栄し、命を繋いできたというのがダーウィンが唱えた進化論「自然選択説」である。

それに対してラマルクが唱えた「用不用説」がキリンは背の高い木の草を食べようとした結果、キリンの首は伸び、生存競争に勝ち、そし子孫が繁栄し、生き残ってきたと考えるのだ。ラマルクの説には欠点が非常に多いため、現代ではあまり採用されない。とくにこの生物多様性の生物を個々に観察してみると非常に無駄なものが多いからである。

生物の進化で生まれる無駄なもの、変わり者による進化には先見性も全体構想も存在しないため、目先の状況に対処するのに役立つ適応が将来の成功につながる保証はない。もちろん逆のことも言える。無駄なものが多くなり過ぎれば、現代の環境に適応できなくなり、生き抜くことができない。とはいえ、無駄なものが全くない生物もまた気候変動に対応できない。この気候変動の激しい地球で生き抜くには無駄なものがあるという余裕が必要なのだ。

この説はもちろん、我々人類ヒトにももちろん当てはまる。私たちの最大の特徴は直立二足歩行である。二足歩行の生き物は確かに他にもいるのだが、直立しているのはヒトだけである。どうして私たちは二足歩行になったのだろうか?

その答えは足の形を見ればすぐに分かるだろう。私たちはついつい手が自由になったことが進化の恩恵だともうかもしれないが、手の形は他のサルたちとあまり変わらない。しかし足の形は全然違う。私たちヒトの足は手のように棒状のものを掴むことに全く適していないことが分かるだろう。私たちの手は親指と他の4本の指が向かい合わせに動くが、足はそうなっていない。そう、つまり私たちは木登りが非常に苦手なのである。そのせいで私たちは二足歩行するしかなかったのだ。

類人猿の中でもホモ属の生物は私たちホモ・サピエンス(ヒト)以外にもたくさんいたことが分かっている。それらもすべて遺伝子の突然変異によって生まれた変わり者である。おそらく誕生した頃は木の上に登っているサルたちに笑われたことだろう。その中で結局、ヒトだけが生き残り、子孫繁栄し、そして地球上に生息している。いったいどうして私たちヒトだけが生き残ったのかについてはまだ確定的な説はないが、ヒトだけが持っていた失敗がそこにはあるのだろう。

たくさん失敗したらいい。かつて自然農の限らず先人たちは失敗をたくさん繰り返し、積み重ねてきた。大人たちが失敗するところを見せなくては子供は安心して失敗できないではないか。失敗しても諦めずにタネを蒔く姿ほど、最高の教育方法はないだろう。失敗したらこう言えばいい。「だって、人間だもの。byあいだみつを」と。


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